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性格は決断の集まり

性格だと諦めてきたことってありませんか?

性格は生まれつきでしょうか?

生まれたての赤ちゃんがワンワンなく子もいれば全然泣かない子もいます。
生まれた時に気質的な違いはありますが、ハイハイしている赤ちゃんが失敗して、「ハイハイ出来ない自分はダメだ。生きている価値なんかない。」と思うでしょうか?

思わないですよね。

心理療法のページでうまく生きていく為に決めた事の集まりと書いていましたが、私たちの人生に大きな影響を与えている小さい頃に決めた決断。私達のこころの中のメッセージ、インナーメッセージ(禁止令)があります。

長い時間続けてきた考え方や習慣も、実は自分で決めた「心の決断」の集まりです。だから、それを見直し、新たに決め直すことも可能です。この方法を使った心理療法が「再決断療法」や「インナーチェンジングセラピー」です。これにより、今までの性格や思い込みを変えることができます。

性格だと思って諦めてきたことや、ここが楽になったら変わるんじゃないかな?とご自身の性格を垣間見るヒントやきっかけにして貰えればと思います。

※ここでは22の禁止令を載せていましたが、今の25の禁止令に修正中です。

禁止令の数は、なぜ時代によって変わってきたのか

禁止令という考え方は、1976年に再決断療法の創始者ロバート・グールディングとメリー・グールディングという二人の治療者が、臨床経験の中で繰り返し見られるテーマを「12の禁止令」としてまとめたことから始まりました。

その後、グールディングのもとで再決断療法を学んだジョン・マクニールが、1999年頃から、実際にクライアントの言動に表れる行動パターンを調べる中で、それまでのリストでは説明しきれない部分があることに気づき、整理し直していきます。そして2010年頃、禁止令を「生存」「人間関係」「自己」「能力」「安全」という5つの領域に分類した「25の禁止令」として提唱しました。

禁止令のリストは、一度決まったら変わらない図鑑のようなものではありません。臨床家が実際の現場で「これでは説明がつかない」と感じ続けたことによって、今も磨かれ育ち続けているものです。「13個」「22個」「25個」など、見聞きする数が違うのも誤りではなく、こうした臨床の積み重ねの結果だとご理解いただければと思います。

大切なのは、何個あるかを正確に覚えることではありません。カウンセラー側が「なぜ分類が変わってきたのか」という背景を理解しているかどうかが、実際のカウンセリングの質にも関わってきます。一つの禁止令の名前にクライアントを当てはめて終わるのではなく、その人の中に複数の禁止令が絡み合っていることや、表面的な行動パターンの奥にある決断を見立てる際、分類の変遷(生存になったり能力になったり)を知っていることで、禁止令への理解が深まり、見立ての手がかりになります。読んでくださる方は、「禁止令には歴史があるんだな」という程度に留めておいていただければ十分です。その先の見立てや整理は、カウンセラーが担う部分だと思っています。

※この歴史的経過は、私の恩師である倉成央氏(株式会社メンタルサポート研究所代表)の著書『交流分析にもとづくカウンセリング 再決断療法・人格適応論・感情処理法をとおして学ぶ』(ミネルヴァ書房)の記述を参考にしています。

存在に関するインナーメッセージ(禁止令)

「存在するな」

「存在するな」は、”私は居ないほうがいい” “自分は愛される存在ではない” と決断してしまうことであり、生きることそのものへの否定的な信念として根を張る。日常生活の中で、ふとした瞬間に死にたさが顔を出したり、特別な出来事がなくても生きていくことそのものに大きなエネルギーを使ってしまうのは、この決断が背景にあることが多い。

決断の背景には、あからさまな無視や虐待だけでなく、親の不幸の原因が子どもの側にあるように感じさせる言動(「お前さえいなければ、私達の人生はもっと良かったはずだ」など)、親や身近な人の自殺、他人の死を喜ぶような態度などがある。また、子どもは行為と衝動を区別できないことが多いため、弟や妹に対して一時的に抱いた「いなくなってほしい」という感情だけでも、「自分は人を傷つける危険な存在だ」「だから自分が傷つけられても仕方ない」というところまで結びつけてしまうことがある。

この禁止令を持つ人の多くは、致命的な結末を避けるために「〇〇している限りは、生きていてもいい」という条件付きの決断を併せ持つ。「一生懸命働き続ける」「人に近づかない」など、その埋め方は人によって異なるが、根底には常に「無条件に生きていい」という許可の欠如がある。今までに、死にたい、消えてしまいたいと感じたことがあるならば、同じ禁止令が当てはまっているとみていい。

例:親が子どもに「お前なんていなくてもいい」と何度も言ったり、無視したりする。子どもは、自分は存在しても意味がないと思い込み、「生きている価値がない」と感じることがある。
大人になっても「自分はいない方がいい人間だ」という信条を持ったまま、自分の気持ちや意見を言わず、他者に合わせることで存在を許可してもらおうとする生き方が続く。

このメッセージの影響は、次のような形で表れることがある。

  • 希死念慮や自傷の衝動、あるいは反対に他者を傷つけたいという衝動
  • 消えてしまいたい、いない方がいいという感覚
  • 生きていることそのものへの罪悪感
  • 誰からも愛されていないという感覚
  • 先に亡くなった人が自分を待っているような感覚
  • ワーカーホリックや無謀な運転など、自分の安全を顧みない行動
再決断後、どう変わるか

「自分は存在しないほうがいい」という決断そのものが書き換わるため、以前なら「死にたい」「消えたい」「いない方がいい」と感じていたような場面に置かれても、その思考自体が立たなくなっていく。これは「つらい場面で耐えられるようになった」のではなく、つらい場面そのものへの解釈の前提(自分の存在は条件付きだ、というルール)が変わるということ。再決断とは、誰のもとに生まれ、周囲からどう扱われたかに関係なく、人はもともと生きる価値がある存在として生まれているという事実に、自分自身で気づき直すことである。

例えば、こうした変化が見られます:

  • 会議で意見を求められても「言ったら浮くかもしれない」と黙っていたが、発言が浮くかどうかより先に「言ってもいい」という前提が立つようになった
  • つらい出来事があると「自分がいなければこんなことにならなかった」と結びつけていたが、出来事と自分の存在価値を結びつけなくなった
  • 人に頼ることに「迷惑をかけている」という罪悪感が強かったが、頼ることと存在価値を切り離して考えられるようになった

「健康であるな」

「健康であるな」を決断した人は、深層意識のレベルで健康を損なうことを望んでしまっている。これは多くの場合意図的なものではなく、健康への無関心や、不適当なエネルギー消費の積み重ねから起こる。病気になったときだけ、普段は与えられない関心や労り(ストローク)を受け取った体験から、無意識のうちに「病気になる」ことを選び続けてしまうのである。両親の病弱さや、何度も入院する姿を目撃して育ったことが背景になっている場合もある。

幼少期にはっきりとしたトラウマ体験を持たない場合が多く、むしろ好意的に扱われたと感じていることが多い。両親が忙しく、十分に関心を向けてもらえない環境で育った子どもが、病気になった時だけ仕事を休んでもらえたり、特別に構ってもらえたりした体験から、「ここで欲しい関心を手に入れるためには、病気にならなくては」という結論を、子どもながらに導き出してしまう。

また、親が周囲に「この子は丈夫じゃないから」と繰り返し言うことで、本人の体質とは関係なく「弱い存在である」という属性として、この禁止令が与えられることもある。

例:普段は忙しくてあまり気にかけてくれないけれど、私が病気のときだけ、「大丈夫だよ」「ゆっくり休んでね」と心配して優しく気にかけてくれる。
これにより、「自分は大事にされている」「自分のことを気にかけてもらえる」と安心する決断をした、と考えられます。

このメッセージの影響は、次のような形で表れることがある。

  • ストレス状況に置かれると、決まって体調を崩すパターンを繰り返す
  • 病気をしたときだけ、温かい関心や労りをもらえている感覚がある
  • 病気になる以外の方法では、自分を休ませてよいと思えない
  • 調子が良いとき、物事がうまく進んでいるときに、なぜか体を壊してしまう
  • 過剰にやり続けて疲れ果てることに、ある種の充足を感じている
再決断後、どう変わるか

「健康であってはいけない」「弱くあるべき」という決断そのものが書き換わるため、好調なときや成果が出たときに無意識に体調を崩したり、自分を傷つけるような行動を取る必要がなくなっていく。これは「病気にならないよう気をつけられるようになった」のではなく、健康であること・順調であることに対して罪悪感や危険を感じる前提(順調だと誰かが困る、というルール)が変わるということで、結果として、調子の良さや成果を、不調を呼び込まずにそのまま受け取れるようになる。

例えば、こうした変化が見られることがあります:

  • 仕事の成果が出ると必ず体調を崩していたが、成果を出した自分をそのまま認められるようになり、疲れたら早めに休むという判断ができるようになった
  • 親の世話に自分の健康を後回しにしていたが、相手を世話することと自分の健康を守ることを両立させて考えられるようになった
  • 無理をして頑張ることで自分の価値を証明しようとしていたが、頑張らなくても、休んでいる自分にも価値があると思えるようになった

「信頼するな」

「信頼するな」を決断した人は、人から期待を裏切られ、傷つけられた体験によって、深い失意と悲しみを味わっている。その痛みを二度と味わわないために、”自分が傷つかずに済むよう、決して信頼しないこと” を心に決めているのである。親自身がアルコール依存や精神的な不調などで信頼できない存在だった場合や、疑り深い親から「人を疑いなさい」というメッセージを受け取って育った場合にも、この決断に至ることがある。

彼らは、自分でコントロールできる人や出来事だけを信じようとする。それすら耐えられなくなったとき、絶望を感じ、恐怖のわなに落ち、結局は「自分自身しか信じない」というところへ戻っていく。

この決断をいったん固めると、他者を評価する基準が、誰もが失敗してしまうほど高いものになっていく。信用できた経験には目を向けず、信用できなかった経験ばかりを集めて、「やっぱり人は信用できない」という確信を強化していくのである。同時に、疑い深く生きることによって、自分は安全でいられるとも信じている。

例:親が「人は信用できない」と言い続けて育った子どもは、大人になっても人を信用できず、人間関係に慎重になったり、他者を信じずに孤独を選んだりする。

このメッセージの影響は、次のような形で表れることがある。

  • 自分しか信じられないという感覚がある
  • 他者からわなにはめられるのではないかという不安がある
  • 信じられるものはこの世にないと思っている
  • 対人関係において過剰に用心深くなる
  • 自分のことを話すことに強い不安を感じる
  • 他者の言動に、敵意や攻撃を過剰に感じ取りやすい
再決断後、どう変わるか

「決して信頼しない」という決断そのものが書き換わるため、人を全か無かで「信用する/信用しない」と分けなくてもよくなっていく。これは「とにかく人を信じられるようになった」ということではなく、目の前の相手がどういう人なのかを、過去の傷つきからではなく、その人自身の言動から見極める力を取り戻すということである。再決断は、まず不信から来る緊張そのものが不快なものであったと認識することから始まり、その上で「自分が信用したいと思う人を信用する」と決め、実際に試していくことで進んでいく。

例えば、こうした変化が見られることがあります:

  • 誰かに頼ることを避け、すべて自分一人でコントロールしようとしていたが、信用できそうな相手には任せてみる、ということができるようになった
  • 相手の失敗や欠点ばかりに注目していたが、信用できた経験にも目を向けられるようになった
  • 人をひとまとめに「信用できない」と扱っていたが、一人ひとりの言動を見て、信頼できる相手かどうかを判断できるようになった

「正気であるな」

この禁止令は、子どもが幼少期に、自分では抱えきれないほどの恐怖や悲しみを経験した中で形成される。守られていないと感じるほどの過酷な環境の中で、その恐怖や悲しみは、いつしか憎しみや復讐の感情に姿を変えて心の奥にしまい込まれ、本人はその感情の強さに「自分はいつかおかしくなってしまうのではないか」という不安を抱くようになる。

背景には、精神的に不安定であったり、現実からかけ離れた考え方や振る舞いをする親や身近な大人の存在が関わっていることが多い。子どもにとって、愛情の源であるはずの親との関係そのものが、同時に大きな苦しみの源にもなってしまう。また、突飛な振る舞いをした時にだけ親の関心を引けたという体験が、「普通でいては愛されない」という思い込みを強めてしまう場合もある。この不安は、時には「自分は人より正常だ」と強く主張し、他者を見下すことで自分を保とうとする形に表れることもあるが、これも根底にある同じ恐怖の裏返しにすぎない。

例:自分の判断力に自信が持てず、「自分の感じ方がそもそも変なのではないか」という不安から、ものごとを決める場面でいつも人の顔色をうかがってしまう。

例:子どもの頃、人とは違う発想や行動を見せた時に「変わってるね」と肯定的な関心を向けられた経験から、「人と違っているからこそ自分は愛される」という思い込みを抱くようになる。大人になると、その思い込みに引かれるように、社会の規範から外れた状況や環境に身を置き続け、そこから離れたほうがよいと分かっていても、なかなか抜け出せない。

このメッセージの影響は、次のような形で表れることがある。

  • いつか自分が正気を失ってしまうのではないかという、拭いきれない不安がある
  • 自分の感覚や判断を、心の底から信じることができない
  • 幼少期に、精神的に不安定であったり現実離れした言動をする身近な大人と過ごした経験がある
  • 怒りや憎しみに駆られやすく、激しい感情に支配されることがある
  • 自分を「正常だ」と強く言い張りながら、他者を内心で見下してしまうことがある
  • 幼少期の親に対して、どうにかなりそうなほど強い憎しみを抱えたまま、それを表に出せずにいる
再決断後、どう変わるか

再決断によって、「いつか正気を失うかもしれない」という恐れに支配され続けるのではなく、「自分の感覚や判断は信頼してよいものだ」という前提に書き換わっていく。たとえ取り乱したり混乱したりする瞬間があっても、それは「正気を失うこと」を意味しないと気づけるようになる。また、激しい怒りや憎しみを抱え続けることで自分を守るのではなく、その怒りを手放し、自分を傷つけた人を許していく中で、初めて本当の安心を得られるようになる。なお、これは「絶対に動揺しない自分」を演じて証明しようとすることとは異なる。本来の再決断は、揺らぐ自分も含めて受け入れられるようになることにある。

例えば、こうした変化が見られることがあります:

  • 自分の感じたことや考えたことを、まず一度は信じてみようとする
  • 動揺したり混乱したりしても、それを「自分がおかしいから」だと結びつけずにいられる
  • 長年抱えてきた怒りや憎しみを少しずつゆるめ、自分自身と幼少期の親を許す感覚を持てるようになる

「触れるな」

この禁止令は、愛着(甘え)の欲求が満たされなかった体験から生まれる。優しく、愛情をこめて触れられることは本来、人が傷つきから回復していくために欠かせないものである。しかし、幼い頃にスキンシップや身体的な接触を拒まれたり、無視されたりする環境で育つと、「触れられることは自分には許されていない」と決断してしまう。

この決断を受け入れることは、本当は触れてほしかったのに叶わなかった過去の痛みを、もう一度認めることに等しい。それを避けるために、彼らは温かさや思いやり、愛情そのものを軽視し、求めることをやめ、むしろ拒絶しながら生きていく道を選ぶ。傷つかないために、人との心の触れ合いに目を向けないまま、強く生きていこうとするのである。

例:自分のことは自分でやり遂げようとし、「何事にも傷つかない」という顔をして生きてきた人が、本当は誰かに優しく触れてほしかったという気持ちに気づいていく。そこから、身体的にも言葉の上でも、相手からの優しさを少しずつ受け取れるようになっていく。

このメッセージの影響は、次のような形で表れることがある。

  • 他者との身体的・情緒的な接触を避けようとする
  • 表情や感情表現が乏しく、心の動きが外から伝わりにくい
  • つらい体験をしても、つらいと感じないまま強く振る舞ってしまう
  • 人との心理的な距離が遠いことに、自分では苦痛を感じていない
  • 人を頼ることができず、逆に人から頼られると重荷に感じる
  • 親密さや感情的な交流を、心地よいものと思えない
再決断後、どう変わるか

「触れられることは安全ではない」ではなく、「自分は触れられていい存在である」という前提に変わっていく。過去に拒まれた痛みを、自分の価値がなかったからではなく、相手側の事情だったのだと受け止め直すことで、温かさや愛情を求めること自体への抵抗が和らいでいく。

例えば、こうした変化が見られることがあります:

  • 身体的な触れ合いや親密な距離感を、緊張せずに受け入れられるようになる
  • 人に頼ること、甘えることへの罪悪感が減り、相手の優しさを素直に受け取れるようになる
  • 自分のつらさだけでなく、他者のつらさにも共感できるようになる

人間関係に関する禁止令

「近づくな」

この禁止令は、距離の近さそのものへの恐れとして決断される。距離には二つの種類がある。ひとつは身体的な距離で、互いにほとんど触れ合うことのない家庭でモデルとして伝わる。もうひとつは感情的な距離で、自分の気持ちについて家族で語り合うことのない環境において、世代を越えて受け継がれていく。

決断のきっかけになりやすいのは、子供が繰り返し心を開いて手を伸ばしたにもかかわらず、親からの応答が一貫して得られなかった経験、あるいは親の機嫌によって受け入れと拒絶が不安定に入れ替わる経験である。後者の場合、子供は親に近づくこと自体を「予測不可能で危険なもの」として学習し、常に相手の顔色をうかがうようになる。さらに、親しんでいた相手が突然いなくなったり死別したりした場合、幼い子供はその理由を理解できないまま、「親密になることと、失うことはセットなのだ」という形でこのメッセージを自分自身に与えてしまうこともある。虐待的な親のもとで決断される場合も同様で、その核にある結論は「自分を守るためには、相手から離れていた方がいい」というものである。

この決断を抱えたまま生きていくと、二つの相反する傾向が同時に表れやすい。一方では、傷つくことを避けるために他者との間に距離を保ち、一匹狼のように生きることを選ぶ。他方では、親密な関係への願いそのものは消えないため、「現実には存在しないほど完璧で、決して自分を傷つけない愛」を探し続けてしまう。どちらの道を選んでも、本人が本当に求めている安心できる親密さには手が届かない。

例:近づいたところで、何になるんだ。どうせどっちみち失われてしまうのだから、と考えて、二度と人に近づいたりはしないと決める。

このメッセージの影響は、次のような形で表れることがある。

  • 他者との間に見えない壁を作り、本音で関わることを避ける
  • 人と表面的な付き合いに留め、深い関係に進むことを避ける
  • 相手が温かく受け入れてくれているときでも、拒絶のサインがないか探ってしまう
  • 親密な関係そのものより、理想化された「完璧で安全な愛」を追い求めてしまう
  • 距離を置くことと願うことの間で揺れ動き、一貫した関わり方が定まらない
  • 不適切な形(過度な依存や一方的な期待など)で関係を作ろうとしてしまう
再決断後、どう変わるか

「近づくことは、いずれ失うことに繋がる」ではなく、「人に近づき、親密になることは暖かく心地よいものである」という前提に書き換わる。傷つく可能性を完全に避けることよりも、自分から親密さを求めて踏み出すことの方が、長い目で見れば満たされた人生につながると理解できるようになる。

例えば、こうした変化が見られることがあります:

  • 拒否され続けたことへの悲しみや怒りを十分に感じられるようになり、親への恨みが少しずつ和らいでいく
  • 完璧な愛を演じたり追い求めたりする必要がなくなり、ありのままの自分で人に近づいてよいと自分に許可を出せるようになる
  • 相手に頼ったり、自分の気持ちを伝えたりすることができるようになり、自然な距離感で人間関係を楽しめるようになる

「愛着を感じるな」

親との間で健全な愛着関係を築けなかった体験から、人と愛着を伴う関係を結ぶこと自体を避けてしまったり、愛情を向けられること、あるいは自分から愛情を表すことに居心地の悪さや恐怖を感じるようになる決断である。乳幼児期に「大好き」という気持ちや甘えを表したときに、養育者からそれを拒まれたり、気持ち悪がられたり、無視され続けたりすると、子どもは「愛情を感じてはいけない、感じるなら隠さなければならない」と結論づけてしまう。

この禁止令の根底には、見捨てられること・最後は独りぼっちになることへの強い不安が存在している。そのため、愛されそうになると自分から距離を置いたり、関係が深まる前にあえて嫌われるような振る舞いをして、不安が現実になる前に先回りしてしまうことがある。また「愛着を感じるな」は、存在に関する禁止令とコインの裏表のような関係にあることが多く、その背後には生存にかかわる禁止令が潜んでいる場合もあるため、単独で扱う際には注意が必要である。

例:愛情を向けられることに不安を感じるクライアントの中には、「人の心は手に入らない」という前提を持ち、その代わりに目に見える物や所有物だけを執拗に求め続けるという形で、満たされない気持ちを埋め合わせようとする人もいる。

このメッセージの影響は、次のような形で表れることがある。

  • 人と愛着関係を築くことそのものに不安や緊張を感じる
  • 拒絶されることを過剰に恐れ、親密になる前に距離を取ってしまう
  • 見捨てられる不安が強く、最後は独りぼっちになるという確信に近い感覚を持っている
  • 自分の子どもや親密な相手に対して、愛情をうまく表現できない
  • 他者の愛情深い関係を見ると、なぜか落ち着かない気持ちや批判的な気持ちになる
  • 常に空虚感や安心感のなさを抱えている
再決断後、どう変わるか

再決断とは、「愛情は心地よくないもの」「愛情を求めれば最後には傷つく」という前提が書き換わり、愛されることの心地よさと安心感を、頭ではなく実感として理解できるようになっていく過程である。それと同時に、自分から人を愛することを実践し、その中で「どんな人も完全ではないし、未来に保証はない」という現実を、不安としてではなく自然なこととして受け入れられるようになる。

例えば、こうした変化が見られることがあります:

  • 身近な人からの優しさや愛情を、居心地の悪さではなく、素直な愛おしさとして感じられるようになる
  • 漠然とした不安や恐怖が和らぎ、これまで抑え込んでいた悲しみにも触れられるようになる
  • 関係を試したり先に距離を取ったりせずに、安心したまま人とのつながりを保てるようになる

「属するな」

集団の中に身を置きながらも、なぜか自分だけがそこに属していないような違和感を抱える人がいる。家族の中で一体感を持てなかった、兄弟姉妹の中で自分だけ扱いが違った、引っ越しや転校で仲間集団から外れた経験を繰り返した、あるいは内気さやスケープゴート的な扱いをされたことで集団から浮いた存在になった。こうした体験を通じて、「自分はこの場所に属していない」という決断が形成される。家庭内の早い時期に決断される場合もあれば、小学校・中学校での仲間集団との関わりの中で固まっていく場合もある。

この禁止令に従っている人は、集団の中にいても心地よい所属感を得られず、どこにいても”そこからはずれている”という感覚を持ちやすい。本人はそれを「気にしていない」という態度で覆い隠そうとすることも多いが、内側では孤立感や疎外感が強く、集団に対する批判や距離を置く構えを繰り返してしまう。結果として、自分から集団に近づこうとせず、周りから声がかかるのを待つだけの立場に留まりやすくなる。

再決断とは、集団に自分からなじんでいくことの心地よさを知り、自分が本当は所属したいと望んでいることに気づいた上で、自分から集団に踏み出す決断をすることである。批判や距離を置く構えをやめ、「ここに入れてください」と自分から声をかけていくこと、そして自分に合う仲間を自由に選んでよいという前提を持つことが鍵になる。

例:会社の飲み会には毎回参加するが、いつも輪の外側に立って様子を見ているだけで、自分から話に加わろうとしない。「どうせ自分はここのメンバーではない」と感じながら、表面上は気にしていない顔をしている。

このメッセージの影響は、次のような形で表れることがある。

  • 集団の中に自分から入っていこうとしない
  • 集団にいても所属感を感じられず、輪の外側にいる感覚が続く
  • 自分は他人と何かが違うという感覚を持っている
  • 集団より個人での行動を好み、集団的な活動を避けようとする
  • 孤独感や疎外感が強く、集団に対する不満を抱きやすい
  • 転職や転居など、所属する場所を変えることを繰り返しやすい
再決断後、どう変わるか

再決断によって、「自分はここに属していない」という前提が、「私は自分に合う仲間を自由に選んでよい」という前提に書き換わる。集団から距離を置いて批判する側にいるのではなく、自分が望む相手に自分から関心を示し、迎え入れていく側に立てるようになる。気にしていないふりをして孤立を選ぶ必要がなくなり、所属することへの不安そのものが薄れていく。

例えば、こうした変化が見られることがあります:

  • 職場や友人関係の中で、「ここにいてもいい」という感覚が芽生え、輪の外側に留まる必要がなくなる
  • 今まで黙っていた場面で、自分から発言したり活動に加わったりできるようになる
  • 常に気を張って距離を保っていた緊張がゆるみ、関係性の中で自分をさらけ出せるようになる

「子どもであるな」

幼少期から、自分の感情や欲求よりも他者の感情の面倒をみることを優先させるよう教えられたり、問題を抱えた家庭環境の中で小さいうちからその問題に関わらざるを得なかったり、年上の子として弟妹の面倒を見るよう命じられたり、あるいは家庭の中で子どもらしく振る舞うことを許されず、紳士淑女のように振る舞うことを課せられたりする――こうした体験を通じて、「自分には子どもでいる余地はない」という決断が形成される。親自身が精神的に未熟で、子どもが親の心理的な支えになることを求められる場面もこの決断につながりやすい。

この禁止令に従っている人は、大人になっても自分を犠牲にしてまで家庭を守ることや、他者を助け幸せにすること、他者の期待に応えることに専念してしまう。重い荷物を背負って歩き続けるように、自分よりも他者を優先し、他者に合わせ、他者の世話を見てしまう。本人はそれが我慢の積み重ねであることにすら気づいていないことも多い。

再決断とは、自分に優しく寛容になることである。責任を感じることやお世話役になることをやめて、自由に振る舞う、わがままになる、甘える、頼るなど、自分のことを優先する体験を積んでいくことが鍵になる。自分は感情的な要求を持つ人間であり、機械ではないという前提に気づくことから始まる。

例:友人や家族が困っていると、自分の予定を後回しにしてでも手伝おうとするが、自分が困っているときには誰にも頼らず、一人で抱え込んでしまう。誰かに甘えたいと思うこと自体に、どこか後ろめたさを感じている。

このメッセージの影響は、次のような形で表れることがある。

  • 過剰適応し、人に合わせて自分を後回しにする
  • 自発的に振る舞うことが苦手で、決まりのない自由な状況に落ち着かない
  • 周囲の期待に過剰に応えようとする
  • 人といるときに自分らしく振る舞えない
  • わがままが言えず、自分の欲求を表に出せない
  • 甘えられない、人に頼ることができない
  • 見返りを期待しながら、他者の世話を引き受けることが習慣になっている
再決断後、どう変わるか

再決断によって、「自分には感情的な要求を表す余地がない」という前提が、「私は要求を持つ人間であり、機械ではない」という前提に書き換わる。世話役として見返りを待ちながら他者に尽くす側から、自分の感情や欲求を素直に伝え、人に甘え、頼ることができる側へと変わっていく。我慢して耐え抜くことが強さだという思い込みから、自由になっていく。

例えば、こうした変化が見られることがあります:

  • 悲しいときに泣けたり、困っていることを「助けてほしい」と言えるようになる
  • 親しい人に弱さを見せたり、甘えたりすることが怖くなくなる
  • 気を張っていた緊張がゆるみ、自分自身が何を望んでいるのかに気づき始める

「関わるな」

幼少期に、誰かに関心を示してほしいと願ったにもかかわらずそれが叶わなかったり、親から過度にコントロールされる経験を重ねたりする中で、「関わりを求めて苦しむよりも、あきらめたほうが良い」「人と関わることは面倒で厄介なことだ」という決断が形成される。誰かと関わろうとすると親に止められたり、親自身が他者との関わりを極端に制限していたり、「人は信用できない」というメッセージを繰り返し受け取ったりすることも、この決断につながりやすい。

この禁止令に従っている人は、他者に自分のエネルギーや時間を投入することを避け、関わりを希薄なままに保とうとする。他者との関わりに疲労感を覚えやすく、人と距離を取った関係を維持しながら生きていく。相手の思いや気持ちにあえて気づかないようにしてしまうことも多い。

再決断とは、他者と関わることの心地よさを感じたいという欲求に気づいた上で、人に関心を向けることを自分で決めることである。「人のことはわからない」と思うのをやめて、相手のことに気づき、関わってみること。それが自分の魅力を高め、心地よい経験になっていくことを理解していくことが鍵になる。

例:同僚や友人と一緒にいても、相手の気持ちや状況にあえて深く踏み込まないようにしている。誰かのために本気で時間や気持ちを使うことに、どこか面倒さや疲れを感じてしまう。

このメッセージの影響は、次のような形で表れることがある。

  • 他者に関心を向けようとしない
  • 誰かのために本気になって何かをすることがない
  • 人と表面的な付き合いしかしようとしない
  • 人のことにあまり干渉せず、「人は人、自分は自分」という態度が強い
  • 他者を甘えさせない、頼らせないよう距離を保つ
  • 人と関わることを面倒だと感じ、関わることで疲れてしまう
再決断後、どう変わるか

再決断によって、「私には(感情を向ける)時間がない」という前提が、「私は特定の人たちに心のすべてを与えられる」という前提に書き換わる。見返りのある活動や実用的な世界だけに時間を費やすのではなく、大切な人を自分で見つけ、その人たちのために時間と気持ちを注ぐ側に立てるようになる。関わることへの疲労感や面倒さよりも、関わることの心地よさに気づいていく。

例えば、こうした変化が見られることがあります:

  • 人のことが少しずつ信用できるようになり、自分から関わろうとする気持ちが出てくる
  • 表面的な付き合いだけでなく、本当の気持ちを相手に伝えられるようになる
  • 人の中にいても息苦しさを感じなくなり、孤立感が薄れていく

「欲しがるな」

例えば「もし自分が欲しがると親や小さな兄弟に申し訳ない」と決断するかもしれない。また、生きる最低限のものすら与えられないような体験から決断する場合もある。自分の欲求を後回しにし、欲求を感じることや欲しがることを回避する。

自己に関する禁止令

「お前であるな(お前の性であるな)」

親が望んでいた性と違った性に生まれた子供に多く見られる禁止令で、「あなたが女の子(男の子)だったから、みんながっかりしたのよ。」などのメッセージによって決断される。男の子が自分は除け者にされて、女の子だけ(姉妹)が大切にされ、好きな物を何でも与えられているのを見てしまうと、この男の子は、「男の子であるな。でなければ、何もあげない。」と解釈し、このメッセージを受け入れてしまうかもしれない。またこの禁止令は、セックスアイデンティティを否定する決断とジェンダーアイデンティティを否定する決断という2種類があり、セックスアイデンティティの決断は生存に関する禁止令のカテゴリーに入ると考えてよい。ジェンダーアイデンティティを否定する決断は、男らしさや女らしさなど自身の性別らしさを象徴する属性を否定する決断となる。また「お前であるな」は、人格を構成する属性(知性、感性、創造性、芸術性、容姿、美しさ、運動能力など)について「お前であるな、他の子のようであれ」という形で否定的に決断される。

「離れるな」

子どもが離れることに恐れを抱き、子どもを思いのままにコントロールしようとする親からのメッセージによって決断する。「離れることはとても悪いことだ」「離れると私は(又は親は)生きていけない」などと決断する。結果的にこの決断は、自分の欲求と 他者のそれとのどちらを優先するのかについての葛藤を抱えていることも多い。この禁止令は、生存に関する禁止令の拮抗禁止令として働いている場合が多く、その再決断には十分な注意が必要である。

「見えるな」

目立つ存在になることが自分の身に危険を及ぼすことになると思う子どもが決断する。 また、目立つ存在になろうとしない親の姿を見て決断することもある。存在感の無さ、目立たなさが大きな特徴で、人並みであろうとしたり、みなの中で平均的であろうとする。この禁止令は、「考えるな」「感じるな」「行動するな」などの拮抗禁止令として働いている場合が多く、その再決断には十分な注意が必要。

「重要であるな」

“私は重要でない”という内的感覚に逆らうことによって、この禁止メッセージを持っている人は、対処行動として偉大になろう、そして最終的に重要になろうと駆り立てられる。彼らは尊大であり競争的である。「重要でなければ生きている価値など無いのだ」と感じた子どもが決断する。 または逆に自信が無く、例えばリーダー的な役割になったときにパニックになるなどの行動を示すこともある。いつも抑え付けられていて、自己主張が許されず、「お前に、そんな難しいことができるものか。」「お前の欲しいものは重要でない。」と様々な形で値引きされて育つ子に見られる。

「するな」

あれも、これも危ない。恐怖心の強い親たちによって与えられる。「いじってはダメよ。あなたは必ず壊すのだから。」「危ないから、ナイフで鉛筆を削るのは、いけません。」など試行錯誤や冒険的な行動を禁止する。また、子供がやりたいことや言い出したこと全てに対し心配する。子供は、「自分がすること、正しいこと、安全なことは、一つも無いと信じ込み、指示してくれる人を見つけようとする。

能力に関する禁止令

「成功感じるな」「(決して)成し遂げるな」

例えば、ピンポンゲームでいつも息子を負かしていた親が、息子が勝った途端に息子と遊ぶことをやめてしまえば、息子は父親から嫌われると思い、このメッセージを受け入れる。完全主義の親に絶えず批判されて育つと、「お前は、何一つきちんと出来ない。」と受けとめられ、「成功するな」と解釈される。この禁止令は、成功を達成しても成功したという達成感を感じない「成功を感じるな」と、もう少しのところで成功を成し遂げない「成し遂げるな」の二つがある。

「成長するな」「セクシーであるな」

子どもが成長し、自分の可愛く小さな子どもでなくなってしまうことを恐れる親が与えることが多い。「お前は末っ子で小さいからまだ、そんなことは出来ないのよ」と何でも親がしてしまう。子どもは、「成長しないほうが私は喜ばれる」と判断し、大人になることを拒否する。 「セクシーであるな」は、父親が娘に与える場合が多い。セクシーになっていく娘に嫌悪し、セクシーな振る舞いやセクシーな身なりを禁止するためである。娘は、成長すると(セクシーであると)、父親から愛してもらえ無いと解釈する。

「考えるな」「それについて考えるな」
「お前が考えることは考えるな、私が考えることを考えろ」

子どもが自分で考えることを値引きし、何でも親が考えて指示してしまうため、 子どもは考える事をやめてしまう。「周りがすべて考えてくれるから、私は考えなくていい」と思う。考えようとしても考えがまとまらなかったり、自分で考えることに自信がなかったりすることが多い。またこの禁止令は、自分が考えるように考えるのではなく、他者が考えるように考えるという決断パターンや、特定の物事について(例えば、お金のことを考えるな、セックスのことを考えるななど)考えられないという決断パターンなどがある。

安全(安心感)に関する禁止令

「楽しむな」

自由に楽しむことを許されない環境や、自らが楽しもうとしない親によって与えられる。楽しむことに罪悪感を感じたり、楽しむことをずっと後回しにし続けるなどという特徴が見られる。

「感謝するな」

この決断を持つ人たちは、人に対して不信、警戒、疑念、恨みを持つことを教えられ、もう一度同じようなことが起きないか疑心暗鬼である。その結果、人間関係は無味乾燥そうとしたものとなり、温かみを感じることができない。そのために、暖かさをいつも求め続けては、失望させられ、相手に対して批判的になると言うことを繰り返してしまう。

「感じるな」「お前が感じるようには、感じるな。私が感じるように感じろ」

感情を出すことを禁止される。また、ある感情のみ禁止される場合がある。それは、「悲しみを感じるな」「恐れを感じるな」「怒りを感じるだ」などである。「私が悲しいから、あなたも悲しいのよ。」などによっても与えられることがある。それは、「相手が感じるように感じる」と言うように、自分の感情が相手の感情によって決定付けられるというように表れる。

「くつろぐな(そして安全を感じるな)」

例えば、物心ついた時から頑張っているのが当たり前で、ゆっくりしたり、ダラダラすることに罪悪感を感じると言う環境下で決断する。 のんびりできない、ダラダラすることに抵抗があるという場合が多い。この禁止令は、生存に関する禁止令の拮抗禁止令として働いている場合が多く、その再決断には十分な注意が必要である。

心理療法について