目次
性格は決断の集まり
性格だと諦めてきたことってありませんか?
性格は生まれつきでしょうか?
生まれたての赤ちゃんがワンワンなく子もいれば全然泣かない子もいます。
生まれた時に気質的な違いはありますが、ハイハイしている赤ちゃんが失敗して、「ハイハイ出来ない自分はダメだ。生きている価値なんかない。」と思うでしょうか?
思わないですよね。
心理療法のページでうまく生きていく為に決めた事の集まりと書いていましたが、私たちの人生に大きな影響を与えている小さい頃に決めた決断。私達のこころの中のメッセージ、インナーメッセージ(禁止令)があります。
長い時間続けてきた考え方や習慣も、実は自分で決めた「心の決断」の集まりです。だから、それを見直し、新たに決め直すことも可能です。この方法を使った心理療法が「再決断療法」や「インナーチェンジングセラピー」です。これにより、今までの性格や思い込みを変えることができます。
性格だと思って諦めてきたことや、ここが楽になったら変わるんじゃないかな?とご自身の性格を垣間見るヒントやきっかけにして貰えればと思います。
※ここでは22の禁止令を載せていましたが、今の25の禁止令に変更しました。
禁止令の数は、なぜ時代によって変わってきたのか
禁止令という考え方は、1976年に再決断療法の創始者ロバート・グールディングとメリー・グールディングという二人の治療者が、臨床経験の中で繰り返し見られるテーマを「12の禁止令」としてまとめたことから始まりました。
その後、グールディングのもとで再決断療法を学んだジョン・マクニールが、1999年頃から、実際にクライアントの言動に表れる行動パターンを調べる中で、それまでのリストでは説明しきれない部分があることに気づき、整理し直していきます。そして2010年頃、禁止令を「生存」「人間関係」「自己」「能力」「安全」という5つの領域に分類した「25の禁止令」として提唱しました。
禁止令のリストは、一度決まったら変わらない図鑑のようなものではありません。臨床家が実際の現場で「これでは説明がつかない」と感じ続けたことによって、今も磨かれ育ち続けているものです。「13個」「22個」「25個」など、見聞きする数が違うのも誤りではなく、こうした臨床の積み重ねの結果だとご理解いただければと思います。
大切なのは、何個あるかを正確に覚えることではありません。カウンセラー側が「なぜ分類が変わってきたのか」という背景を理解しているかどうかが、実際のカウンセリングの質にも関わってきます。一つの禁止令の名前にクライアントを当てはめて終わるのではなく、その人の中に複数の禁止令が絡み合っていることや、表面的な行動パターンの奥にある決断を見立てる際、分類の変遷(生存になったり能力になったり)を知っていることで、禁止令への理解が深まり、見立ての手がかりになります。読んでくださる方は、「禁止令には歴史があるんだな」という程度に留めておいていただければ十分です。その先の見立てや整理は、カウンセラーが担う部分だと思っています。
※この歴史的経過は、私の恩師である倉成央氏(株式会社メンタルサポート研究所代表)の著書『交流分析にもとづくカウンセリング 再決断療法・人格適応論・感情処理法をとおして学ぶ』(ミネルヴァ書房)の記述を参考にしています。
存在に関するインナーメッセージ(禁止令)
「存在するな」
「存在するな」は、”私は居ないほうがいい” “自分は愛される存在ではない” と決断してしまうことであり、生きることそのものへの否定的な信念として根を張る。日常生活の中で、ふとした瞬間に死にたさが顔を出したり、特別な出来事がなくても生きていくことそのものに大きなエネルギーを使ってしまうのは、この決断が背景にあることが多い。
決断の背景には、あからさまな無視や虐待だけでなく、親の不幸の原因が子どもの側にあるように感じさせる言動(「お前さえいなければ、私達の人生はもっと良かったはずだ」など)、親や身近な人の自殺、他人の死を喜ぶような態度などがある。また、子どもは行為と衝動を区別できないことが多いため、弟や妹に対して一時的に抱いた「いなくなってほしい」という感情だけでも、「自分は人を傷つける危険な存在だ」「だから自分が傷つけられても仕方ない」というところまで結びつけてしまうことがある。
この禁止令を持つ人の多くは、致命的な結末を避けるために「〇〇している限りは、生きていてもいい」という条件付きの決断を併せ持つ。「一生懸命働き続ける」「人に近づかない」など、その埋め方は人によって異なるが、根底には常に「無条件に生きていい」という許可の欠如がある。今までに、死にたい、消えてしまいたいと感じたことがあるならば、同じ禁止令が当てはまっているとみていい。
例:親が子どもに「お前なんていなくてもいい」と何度も言ったり、無視したりする。子どもは、自分は存在しても意味がないと思い込み、「生きている価値がない」と感じることがある。
大人になっても「自分はいない方がいい人間だ」という信条を持ったまま、自分の気持ちや意見を言わず、他者に合わせることで存在を許可してもらおうとする生き方が続く。
このメッセージの影響は、次のような形で表れることがあります。
- 希死念慮や自傷の衝動、あるいは反対に他者を傷つけたいという衝動
- 消えてしまいたい、いない方がいいという感覚
- 生きていることそのものへの罪悪感
- 誰からも愛されていないという感覚
- 先に亡くなった人が自分を待っているような感覚
- ワーカーホリックや無謀な運転など、自分の安全を顧みない行動
再決断後、どう変わるか
「自分は存在しないほうがいい」という決断そのものが書き換わるため、以前なら「死にたい」「消えたい」「いない方がいい」と感じていたような場面に置かれても、その思考自体が立たなくなっていく。これは「つらい場面で耐えられるようになった」のではなく、つらい場面そのものへの解釈の前提(自分の存在は条件付きだ、というルール)が変わるということ。再決断とは、誰のもとに生まれ、周囲からどう扱われたかに関係なく、人はもともと生きる価値がある存在として生まれているという事実に、自分自身で気づき直すことである。
例えば、こうした変化が見られます:
- 会議で意見を求められても「言ったら浮くかもしれない」と黙っていたが、発言が浮くかどうかより先に「言ってもいい」という前提が立つようになった
- つらい出来事があると「自分がいなければこんなことにならなかった」と結びつけていたが、出来事と自分の存在価値を結びつけなくなった
- 人に頼ることに「迷惑をかけている」という罪悪感が強かったが、頼ることと存在価値を切り離して考えられるようになった
「健康であるな」
「健康であるな」を決断した人は、深層意識のレベルで健康を損なうことを望んでしまっている。これは多くの場合意図的なものではなく、健康への無関心や、不適当なエネルギー消費の積み重ねから起こる。病気になったときだけ、普段は与えられない関心や労り(ストローク)を受け取った体験から、無意識のうちに「病気になる」ことを選び続けてしまうのである。両親の病弱さや、何度も入院する姿を目撃して育ったことが背景になっている場合もある。
幼少期にはっきりとしたトラウマ体験を持たない場合が多く、むしろ好意的に扱われたと感じていることが多い。両親が忙しく、十分に関心を向けてもらえない環境で育った子どもが、病気になった時だけ仕事を休んでもらえたり、特別に構ってもらえたりした体験から、「ここで欲しい関心を手に入れるためには、病気にならなくては」という結論を、子どもながらに導き出してしまう。
また、親が周囲に「この子は丈夫じゃないから」と繰り返し言うことで、本人の体質とは関係なく「弱い存在である」という属性として、この禁止令が与えられることもある。
例:普段は忙しくてあまり気にかけてくれないけれど、私が病気のときだけ、「大丈夫だよ」「ゆっくり休んでね」と心配して優しく気にかけてくれる。
これにより、「自分は大事にされている」「自分のことを気にかけてもらえる」と安心する決断をした、と考えられます。
このメッセージの影響は、次のような形で表れることがあります。
- ストレス状況に置かれると、決まって体調を崩すパターンを繰り返す
- 病気をしたときだけ、温かい関心や労りをもらえている感覚がある
- 病気になる以外の方法では、自分を休ませてよいと思えない
- 調子が良いとき、物事がうまく進んでいるときに、なぜか体を壊してしまう
- 過剰にやり続けて疲れ果てることに、ある種の充足を感じている
再決断後、どう変わるか
「健康であってはいけない」「弱くあるべき」という決断そのものが書き換わるため、好調なときや成果が出たときに無意識に体調を崩したり、自分を傷つけるような行動を取る必要がなくなっていく。これは「病気にならないよう気をつけられるようになった」のではなく、健康であること・順調であることに対して罪悪感や危険を感じる前提(順調だと誰かが困る、というルール)が変わるということで、結果として、調子の良さや成果を、不調を呼び込まずにそのまま受け取れるようになる。
例えば、こうした変化が見られることがあります:
- 仕事の成果が出ると必ず体調を崩していたが、成果を出した自分をそのまま認められるようになり、疲れたら早めに休むという判断ができるようになった
- 親の世話に自分の健康を後回しにしていたが、相手を世話することと自分の健康を守ることを両立させて考えられるようになった
- 無理をして頑張ることで自分の価値を証明しようとしていたが、頑張らなくても、休んでいる自分にも価値があると思えるようになった
「信頼するな」
「信頼するな」を決断した人は、人から期待を裏切られ、傷つけられた体験によって、深い失意と悲しみを味わっている。その痛みを二度と味わわないために、”自分が傷つかずに済むよう、決して信頼しないこと” を心に決めているのである。親自身がアルコール依存や精神的な不調などで信頼できない存在だった場合や、疑り深い親から「人を疑いなさい」というメッセージを受け取って育った場合にも、この決断に至ることがある。
彼らは、自分でコントロールできる人や出来事だけを信じようとする。それすら耐えられなくなったとき、絶望を感じ、恐怖のわなに落ち、結局は「自分自身しか信じない」というところへ戻っていく。
この決断をいったん固めると、他者を評価する基準が、誰もが失敗してしまうほど高いものになっていく。信用できた経験には目を向けず、信用できなかった経験ばかりを集めて、「やっぱり人は信用できない」という確信を強化していくのである。同時に、疑い深く生きることによって、自分は安全でいられるとも信じている。
例:親が「人は信用できない」と言い続けて育った子どもは、大人になっても人を信用できず、人間関係に慎重になったり、他者を信じずに孤独を選んだりする。
このメッセージの影響は、次のような形で表れることがあります。
- 自分しか信じられないという感覚がある
- 他者からわなにはめられるのではないかという不安がある
- 信じられるものはこの世にないと思っている
- 対人関係において過剰に用心深くなる
- 自分のことを話すことに強い不安を感じる
- 他者の言動に、敵意や攻撃を過剰に感じ取りやすい
再決断後、どう変わるか
「決して信頼しない」という決断そのものが書き換わるため、人を全か無かで「信用する/信用しない」と分けなくてもよくなっていく。これは「とにかく人を信じられるようになった」ということではなく、目の前の相手がどういう人なのかを、過去の傷つきからではなく、その人自身の言動から見極める力を取り戻すということである。再決断は、まず不信から来る緊張そのものが不快なものであったと認識することから始まり、その上で「自分が信用したいと思う人を信用する」と決め、実際に試していくことで進んでいく。
例えば、こうした変化が見られることがあります:
- 誰かに頼ることを避け、すべて自分一人でコントロールしようとしていたが、信用できそうな相手には任せてみる、ということができるようになった
- 相手の失敗や欠点ばかりに注目していたが、信用できた経験にも目を向けられるようになった
- 人をひとまとめに「信用できない」と扱っていたが、一人ひとりの言動を見て、信頼できる相手かどうかを判断できるようになった
「正気であるな」
この禁止令は、子どもが幼少期に、自分では抱えきれないほどの恐怖や悲しみを経験した中で形成される。守られていないと感じるほどの過酷な環境の中で、その恐怖や悲しみは、いつしか憎しみや復讐の感情に姿を変えて心の奥にしまい込まれ、本人はその感情の強さに「自分はいつかおかしくなってしまうのではないか」という不安を抱くようになる。
背景には、精神的に不安定であったり、現実からかけ離れた考え方や振る舞いをする親や身近な大人の存在が関わっていることが多い。子どもにとって、愛情の源であるはずの親との関係そのものが、同時に大きな苦しみの源にもなってしまう。また、突飛な振る舞いをした時にだけ親の関心を引けたという体験が、「普通でいては愛されない」という思い込みを強めてしまう場合もある。この不安は、時には「自分は人より正常だ」と強く主張し、他者を見下すことで自分を保とうとする形に表れることもあるが、これも根底にある同じ恐怖の裏返しにすぎない。
例:自分の判断力に自信が持てず、「自分の感じ方がそもそも変なのではないか」という不安から、ものごとを決める場面でいつも人の顔色をうかがってしまう。
例:子どもの頃、人とは違う発想や行動を見せた時に「変わってるね」と肯定的な関心を向けられた経験から、「人と違っているからこそ自分は愛される」という思い込みを抱くようになる。大人になると、その思い込みに引かれるように、社会の規範から外れた状況や環境に身を置き続け、そこから離れたほうがよいと分かっていても、なかなか抜け出せない。
このメッセージの影響は、次のような形で表れることがあります。
- いつか自分が正気を失ってしまうのではないかという、拭いきれない不安がある
- 自分の感覚や判断を、心の底から信じることができない
- 幼少期に、精神的に不安定であったり現実離れした言動をする身近な大人と過ごした経験がある
- 怒りや憎しみに駆られやすく、激しい感情に支配されることがある
- 自分を「正常だ」と強く言い張りながら、他者を内心で見下してしまうことがある
- 幼少期の親に対して、どうにかなりそうなほど強い憎しみを抱えたまま、それを表に出せずにいる
再決断後、どう変わるか
再決断によって、「いつか正気を失うかもしれない」という恐れに支配され続けるのではなく、「自分の感覚や判断は信頼してよいものだ」という前提に書き換わっていく。たとえ取り乱したり混乱したりする瞬間があっても、それは「正気を失うこと」を意味しないと気づけるようになる。また、激しい怒りや憎しみを抱え続けることで自分を守るのではなく、その怒りを手放し、自分を傷つけた人を許していく中で、初めて本当の安心を得られるようになる。なお、これは「絶対に動揺しない自分」を演じて証明しようとすることとは異なる。本来の再決断は、揺らぐ自分も含めて受け入れられるようになることにある。
例えば、こうした変化が見られることがあります:
- 自分の感じたことや考えたことを、まず一度は信じてみようとする
- 動揺したり混乱したりしても、それを「自分がおかしいから」だと結びつけずにいられる
- 長年抱えてきた怒りや憎しみを少しずつゆるめ、自分自身と幼少期の親を許す感覚を持てるようになる
「触れるな」
この禁止令は、愛着(甘え)の欲求が満たされなかった体験から生まれる。優しく、愛情をこめて触れられることは本来、人が傷つきから回復していくために欠かせないものである。しかし、幼い頃にスキンシップや身体的な接触を拒まれたり、無視されたりする環境で育つと、「触れられることは自分には許されていない」と決断してしまう。
この決断を受け入れることは、本当は触れてほしかったのに叶わなかった過去の痛みを、もう一度認めることに等しい。それを避けるために、彼らは温かさや思いやり、愛情そのものを軽視し、求めることをやめ、むしろ拒絶しながら生きていく道を選ぶ。傷つかないために、人との心の触れ合いに目を向けないまま、強く生きていこうとするのである。
例:自分のことは自分でやり遂げようとし、「何事にも傷つかない」という顔をして生きてきた人が、本当は誰かに優しく触れてほしかったという気持ちに気づいていく。そこから、身体的にも言葉の上でも、相手からの優しさを少しずつ受け取れるようになっていく。
このメッセージの影響は、次のような形で表れることがあります。
- 他者との身体的・情緒的な接触を避けようとする
- 表情や感情表現が乏しく、心の動きが外から伝わりにくい
- つらい体験をしても、つらいと感じないまま強く振る舞ってしまう
- 人との心理的な距離が遠いことに、自分では苦痛を感じていない
- 人を頼ることができず、逆に人から頼られると重荷に感じる
- 親密さや感情的な交流を、心地よいものと思えない
再決断後、どう変わるか
「触れられることは安全ではない」ではなく、「自分は触れられていい存在である」という前提に変わっていく。過去に拒まれた痛みを、自分の価値がなかったからではなく、相手側の事情だったのだと受け止め直すことで、温かさや愛情を求めること自体への抵抗が和らいでいく。
例えば、こうした変化が見られることがあります:
- 身体的な触れ合いや親密な距離感を、緊張せずに受け入れられるようになる
- 人に頼ること、甘えることへの罪悪感が減り、相手の優しさを素直に受け取れるようになる
- 自分のつらさだけでなく、他者のつらさにも共感できるようになる
人間関係に関する禁止令
「近づくな」
この禁止令は、距離の近さそのものへの恐れとして決断される。距離には二つの種類がある。ひとつは身体的な距離で、互いにほとんど触れ合うことのない家庭でモデルとして伝わる。もうひとつは感情的な距離で、自分の気持ちについて家族で語り合うことのない環境において、世代を越えて受け継がれていく。
決断のきっかけになりやすいのは、子供が繰り返し心を開いて手を伸ばしたにもかかわらず、親からの応答が一貫して得られなかった経験、あるいは親の機嫌によって受け入れと拒絶が不安定に入れ替わる経験である。後者の場合、子供は親に近づくこと自体を「予測不可能で危険なもの」として学習し、常に相手の顔色をうかがうようになる。さらに、親しんでいた相手が突然いなくなったり死別したりした場合、幼い子供はその理由を理解できないまま、「親密になることと、失うことはセットなのだ」という形でこのメッセージを自分自身に与えてしまうこともある。虐待的な親のもとで決断される場合も同様で、その核にある結論は「自分を守るためには、相手から離れていた方がいい」というものである。
この決断を抱えたまま生きていくと、二つの相反する傾向が同時に表れやすい。一方では、傷つくことを避けるために他者との間に距離を保ち、一匹狼のように生きることを選ぶ。他方では、親密な関係への願いそのものは消えないため、「現実には存在しないほど完璧で、決して自分を傷つけない愛」を探し続けてしまう。どちらの道を選んでも、本人が本当に求めている安心できる親密さには手が届かない。
例:近づいたところで、何になるんだ。どうせどっちみち失われてしまうのだから、と考えて、二度と人に近づいたりはしないと決める。
このメッセージの影響は、次のような形で表れることがあります。
- 他者との間に見えない壁を作り、本音で関わることを避ける
- 人と表面的な付き合いに留め、深い関係に進むことを避ける
- 相手が温かく受け入れてくれているときでも、拒絶のサインがないか探ってしまう
- 親密な関係そのものより、理想化された「完璧で安全な愛」を追い求めてしまう
- 距離を置くことと願うことの間で揺れ動き、一貫した関わり方が定まらない
- 不適切な形(過度な依存や一方的な期待など)で関係を作ろうとしてしまう
再決断後、どう変わるか
「近づくことは、いずれ失うことに繋がる」ではなく、「人に近づき、親密になることは暖かく心地よいものである」という前提に書き換わる。傷つく可能性を完全に避けることよりも、自分から親密さを求めて踏み出すことの方が、長い目で見れば満たされた人生につながると理解できるようになる。
例えば、こうした変化が見られることがあります:
- 拒否され続けたことへの悲しみや怒りを十分に感じられるようになり、親への恨みが少しずつ和らいでいく
- 完璧な愛を演じたり追い求めたりする必要がなくなり、ありのままの自分で人に近づいてよいと自分に許可を出せるようになる
- 相手に頼ったり、自分の気持ちを伝えたりすることができるようになり、自然な距離感で人間関係を楽しめるようになる
「愛着を感じるな」
親との間で健全な愛着関係を築けなかった体験から、人と愛着を伴う関係を結ぶこと自体を避けてしまったり、愛情を向けられること、あるいは自分から愛情を表すことに居心地の悪さや恐怖を感じるようになる決断である。乳幼児期に「大好き」という気持ちや甘えを表したときに、養育者からそれを拒まれたり、気持ち悪がられたり、無視され続けたりすると、子どもは「愛情を感じてはいけない、感じるなら隠さなければならない」と結論づけてしまう。
この禁止令の根底には、見捨てられること・最後は独りぼっちになることへの強い不安が存在している。そのため、愛されそうになると自分から距離を置いたり、関係が深まる前にあえて嫌われるような振る舞いをして、不安が現実になる前に先回りしてしまうことがある。また「愛着を感じるな」は、存在に関する禁止令とコインの裏表のような関係にあることが多く、その背後には生存にかかわる禁止令が潜んでいる場合もあるため、単独で扱う際には注意が必要である。
例:愛情を向けられることに不安を感じるクライアントの中には、「人の心は手に入らない」という前提を持ち、その代わりに目に見える物や所有物だけを執拗に求め続けるという形で、満たされない気持ちを埋め合わせようとする人もいる。
このメッセージの影響は、次のような形で表れることがあります。
- 人と愛着関係を築くことそのものに不安や緊張を感じる
- 拒絶されることを過剰に恐れ、親密になる前に距離を取ってしまう
- 見捨てられる不安が強く、最後は独りぼっちになるという確信に近い感覚を持っている
- 自分の子どもや親密な相手に対して、愛情をうまく表現できない
- 他者の愛情深い関係を見ると、なぜか落ち着かない気持ちや批判的な気持ちになる
- 常に空虚感や安心感のなさを抱えている
再決断後、どう変わるか
再決断とは、「愛情は心地よくないもの」「愛情を求めれば最後には傷つく」という前提が書き換わり、愛されることの心地よさと安心感を、頭ではなく実感として理解できるようになっていく過程である。それと同時に、自分から人を愛することを実践し、その中で「どんな人も完全ではないし、未来に保証はない」という現実を、不安としてではなく自然なこととして受け入れられるようになる。
例えば、こうした変化が見られることがあります:
- 身近な人からの優しさや愛情を、居心地の悪さではなく、素直な愛おしさとして感じられるようになる
- 漠然とした不安や恐怖が和らぎ、これまで抑え込んでいた悲しみにも触れられるようになる
- 関係を試したり先に距離を取ったりせずに、安心したまま人とのつながりを保てるようになる
「属するな」
集団の中に身を置きながらも、なぜか自分だけがそこに属していないような違和感を抱える人がいる。家族の中で一体感を持てなかった、兄弟姉妹の中で自分だけ扱いが違った、引っ越しや転校で仲間集団から外れた経験を繰り返した、あるいは内気さやスケープゴート的な扱いをされたことで集団から浮いた存在になった。こうした体験を通じて、「自分はこの場所に属していない」という決断が形成される。家庭内の早い時期に決断される場合もあれば、小学校・中学校での仲間集団との関わりの中で固まっていく場合もある。
この禁止令に従っている人は、集団の中にいても心地よい所属感を得られず、どこにいても”そこからはずれている”という感覚を持ちやすい。本人はそれを「気にしていない」という態度で覆い隠そうとすることも多いが、内側では孤立感や疎外感が強く、集団に対する批判や距離を置く構えを繰り返してしまう。結果として、自分から集団に近づこうとせず、周りから声がかかるのを待つだけの立場に留まりやすくなる。
再決断とは、集団に自分からなじんでいくことの心地よさを知り、自分が本当は所属したいと望んでいることに気づいた上で、自分から集団に踏み出す決断をすることである。批判や距離を置く構えをやめ、「ここに入れてください」と自分から声をかけていくこと、そして自分に合う仲間を自由に選んでよいという前提を持つことが鍵になる。
例:会社の飲み会には毎回参加するが、いつも輪の外側に立って様子を見ているだけで、自分から話に加わろうとしない。「どうせ自分はここのメンバーではない」と感じながら、表面上は気にしていない顔をしている。
このメッセージの影響は、次のような形で表れることがあります。
- 集団の中に自分から入っていこうとしない
- 集団にいても所属感を感じられず、輪の外側にいる感覚が続く
- 自分は他人と何かが違うという感覚を持っている
- 集団より個人での行動を好み、集団的な活動を避けようとする
- 孤独感や疎外感が強く、集団に対する不満を抱きやすい
- 転職や転居など、所属する場所を変えることを繰り返しやすい
再決断後、どう変わるか
再決断によって、「自分はここに属していない」という前提が、「私は自分に合う仲間を自由に選んでよい」という前提に書き換わる。集団から距離を置いて批判する側にいるのではなく、自分が望む相手に自分から関心を示し、迎え入れていく側に立てるようになる。気にしていないふりをして孤立を選ぶ必要がなくなり、所属することへの不安そのものが薄れていく。
例えば、こうした変化が見られることがあります:
- 職場や友人関係の中で、「ここにいてもいい」という感覚が芽生え、輪の外側に留まる必要がなくなる
- 今まで黙っていた場面で、自分から発言したり活動に加わったりできるようになる
- 常に気を張って距離を保っていた緊張がゆるみ、関係性の中で自分をさらけ出せるようになる
「子どもであるな」
幼少期から、自分の感情や欲求よりも他者の感情の面倒をみることを優先させるよう教えられたり、問題を抱えた家庭環境の中で小さいうちからその問題に関わらざるを得なかったり、年上の子として弟妹の面倒を見るよう命じられたり、あるいは家庭の中で子どもらしく振る舞うことを許されず、紳士淑女のように振る舞うことを課せられたりする。こうした体験を通じて、「自分には子どもでいる余地はない」という決断が形成される。親自身が精神的に未熟で、子どもが親の心理的な支えになることを求められる場面もこの決断につながりやすい。
この禁止令に従っている人は、大人になっても自分を犠牲にしてまで家庭を守ることや、他者を助け幸せにすること、他者の期待に応えることに専念してしまう。重い荷物を背負って歩き続けるように、自分よりも他者を優先し、他者に合わせ、他者の世話を見てしまう。本人はそれが我慢の積み重ねであることにすら気づいていないことも多い。
再決断とは、自分に優しく寛容になることである。責任を感じることやお世話役になることをやめて、自由に振る舞う、わがままになる、甘える、頼るなど、自分のことを優先する体験を積んでいくことが鍵になる。自分は感情的な要求を持つ人間であり、機械ではないという前提に気づくことから始まる。
例:友人や家族が困っていると、自分の予定を後回しにしてでも手伝おうとするが、自分が困っているときには誰にも頼らず、一人で抱え込んでしまう。誰かに甘えたいと思うこと自体に、どこか後ろめたさを感じている。
このメッセージの影響は、次のような形で表れることがあります。
- 過剰適応し、人に合わせて自分を後回しにする
- 自発的に振る舞うことが苦手で、決まりのない自由な状況に落ち着かない
- 周囲の期待に過剰に応えようとする
- 人といるときに自分らしく振る舞えない
- わがままが言えず、自分の欲求を表に出せない
- 甘えられない、人に頼ることができない
- 見返りを期待しながら、他者の世話を引き受けることが習慣になっている
再決断後、どう変わるか
再決断によって、「自分には感情的な要求を表す余地がない」という前提が、「私は要求を持つ人間であり、機械ではない」という前提に書き換わる。世話役として見返りを待ちながら他者に尽くす側から、自分の感情や欲求を素直に伝え、人に甘え、頼ることができる側へと変わっていく。我慢して耐え抜くことが強さだという思い込みから、自由になっていく。
例えば、こうした変化が見られることがあります:
- 悲しいときに泣けたり、困っていることを「助けてほしい」と言えるようになる
- 親しい人に弱さを見せたり、甘えたりすることが怖くなくなる
- 気を張っていた緊張がゆるみ、自分自身が何を望んでいるのかに気づき始める
「関わるな」
幼少期に、誰かに関心を示してほしいと願ったにもかかわらずそれが叶わなかったり、親から過度にコントロールされる経験を重ねたりする中で、「関わりを求めて苦しむよりも、あきらめたほうが良い」「人と関わることは面倒で厄介なことだ」という決断が形成される。誰かと関わろうとすると親に止められたり、親自身が他者との関わりを極端に制限していたり、「人は信用できない」というメッセージを繰り返し受け取ったりすることも、この決断につながりやすい。
この禁止令に従っている人は、他者に自分のエネルギーや時間を投入することを避け、関わりを希薄なままに保とうとする。他者との関わりに疲労感を覚えやすく、人と距離を取った関係を維持しながら生きていく。相手の思いや気持ちにあえて気づかないようにしてしまうことも多い。
再決断とは、他者と関わることの心地よさを感じたいという欲求に気づいた上で、人に関心を向けることを自分で決めることである。「人のことはわからない」と思うのをやめて、相手のことに気づき、関わってみること。それが自分の魅力を高め、心地よい経験になっていくことを理解していくことが鍵になる。
例:同僚や友人と一緒にいても、相手の気持ちや状況にあえて深く踏み込まないようにしている。誰かのために本気で時間や気持ちを使うことに、どこか面倒さや疲れを感じてしまう。
このメッセージの影響は、次のような形で表れることがあります。
- 他者に関心を向けようとしない
- 誰かのために本気になって何かをすることがない
- 人と表面的な付き合いしかしようとしない
- 人のことにあまり干渉せず、「人は人、自分は自分」という態度が強い
- 他者を甘えさせない、頼らせないよう距離を保つ
- 人と関わることを面倒だと感じ、関わることで疲れてしまう
再決断後、どう変わるか
再決断によって、「私には(感情を向ける)時間がない」という前提が、「私は特定の人たちに心のすべてを与えられる」という前提に書き換わる。見返りのある活動や実用的な世界だけに時間を費やすのではなく、大切な人を自分で見つけ、その人たちのために時間と気持ちを注ぐ側に立てるようになる。関わることへの疲労感や面倒さよりも、関わることの心地よさに気づいていく。
例えば、こうした変化が見られることがあります:
- 人のことが少しずつ信用できるようになり、自分から関わろうとする気持ちが出てくる
- 表面的な付き合いだけでなく、本当の気持ちを相手に伝えられるようになる
- 人の中にいても息苦しさを感じなくなり、孤立感が薄れていく
自己に関する禁止令
「お前であるな(お前の性であるな)」
この禁止令は、自分が本来持っている個性や属性そのものを否定する決断である。知性、感性、創造性、芸術性、容姿、運動能力といった、その人を形づくる部分について「お前であるな、他の子のようであれ」というメッセージを繰り返し受け取ることで形成される。親が抱く”理想の子ども”像と実際の子どもとの間にズレがあるとき、そのズレにあたる部分だけが否定され、比較対象(兄弟姉妹や他の子ども)に似ている部分だけにストロークが与えられる、という体験がベースになりやすい。
この禁止令には、生まれついた性そのものを否定される「お前の性であるな」という派生形もある。これは、親が違う性を望んでいたと子どもが感じ取ることで決断され、セックスアイデンティティ(生物学的な性)を否定する決断と、ジェンダーアイデンティティ(男らしさ・女らしさという性別役割の側面)を否定する決断の二種類に分けて理解できる。前者は生存に関わる禁止令に近いカテゴリーとして扱われる。
この禁止令を決断した人は、自分のありのままの個性や性を否定された結果、”本当の自分では受け入れられない”という前提のもとで生きるようになる。そこから、欠点をなくし非の打ちどころのない人間になろうとする過剰な努力や、本来の自分ではなく誰かの期待する役を演じ続けるという生き方につながりやすい。
このメッセージの影響は、次のような形で表れることがあります。
- 自分のある部分(性格・能力・容姿など)に対して強い劣等感を持っている
- 自分のその部分は人から嫌われるに違いないと思い込んでいる
- 本当の自分を生きていないという感覚がある
- 他の人と同じようにならなければいけないという思いが強い
- あるがままの自分では良くないという漠然とした感覚がある
- 自分の性を象徴する服装や振る舞いを避ける、または異性との関係に苦手意識や競争心を抱く
再決断後、どう変わるか
再決断によって、”ありのままの自分では足りない”という前提が、”私はありのままで価値がある”という前提に書き換わる。完璧であることや誰かの理想を演じることによってしか自分を正当化できなかった状態から、自分が嫌っていた部分も含めて自分自身を引き受けられる状態へと変化していく。「お前の性であるな」が絡む場合は、これに加えて、自分が生まれついた性を引き受け、それを楽しめるようになっていく。
例えば、こうした変化が見られることがあります:
- 他者と違う自分の個性を、欠点ではなく魅力として捉えられるようになる
- 完璧を装う必要がなくなり、弱さや失敗を見せても大丈夫だと感じられるようになる
- 自分の性らしい振る舞いや感じ方を、無理なく楽しめるようになる
「離れるな」
「離れるな」は、子どもが自立しようとする動きに対して親が強い不安や恐れを示し、「離れることは危険だ」「あなたが離れたら私(または家族)はやっていけない」というメッセージを繰り返し送ることで決断される。子どもは親の感情的な重さを引き受け、自分がそばにいることで親を支えている、あるいは親を守っているという感覚を強めていく。
ただしこの禁止令の核にあるのは、物理的に離れられないことそのものよりも、「自分が周りの人間とは違う考えや感じ方を持ってはいけない」という、もう一段深いアイデンティティのレベルの制約である。家族や身近な人と意見が異なることは、関係そのものを壊す危険な行為だと感じられるため、本人は衝突を避けて表向きの自分と本当の自分を分けて生きるようになる。「自分がどんな人間であるかを決める権利は自分にある」という、本来誰にとっても当然のはずの前提を、自分自身に対して許可できていない状態だと言える。
この二つの層は別々の問題ではなく、同じ決断の表と裏である。「離れたら相手がやっていけない」という不安と、「自分の考えを持ったら関係が壊れる」という不安は、根のところでつながっている。本人は自立したい気持ちと、一人ではやっていけない(あるいは一人になったら相手を傷つける)という思い込みの間で板挟みになり、どちらの行動も中途半端なまま、葛藤を抱え続けることになる。
例:仕事や住む場所を自分の意思で決めたいと思っても、相手の顔色をうかがって決断を先延ばしにしてしまう。なお、ここで「誰が何と言おうと自分の好きにする」と強く反発するだけの形を取ると、それは葛藤からの解放ではなく禁止令への抵抗の延長にすぎず、本人の中の不安自体は手つかずのまま残ってしまう。
このメッセージの影響は、次のような形で表れることがあります。
- 人に依存する言動が多く、ひとりで決めることに強い不安を感じる
- 成人してからも、心理的に親から自立できていない感覚がある
- 親元や慣れた環境を離れることに、理由のはっきりしない罪悪感を持つ
- 世話をしてくれる人や頼っている相手から離れると、急に不安が強くなる
- 「自分というものがない」という感覚が強く、自分の意見に確信が持てない
- 相手と意見が違うことを怖れ、本音と建前を使い分けてしまう
再決断後、どう変わるか
再決断によって変わるのは、「離れること=相手を傷つける、危険なことだ」という前提が、「自分がどんな人間であるかを決める権利は、自分自身にある」という前提へと置き換わっていく点である。意見の違いは関係を壊すものではなく、むしろ自分自身を明確にし、相手という存在を理解するための手がかりになる、という感覚に変わっていく。離れることそのものが悪いわけではなく、自分の考えを持つことと、相手との関係を保つことは両立できるとわかってくる。
例えば、こうした変化が見られることがあります:
- 相手と意見が違っても、それを隠さずに伝えられるようになる
- 進路や生活上の選択を、相手の反応を必要以上に恐れずに決められるようになる
- 離れている時間や距離があっても、関係そのものは壊れないという安心感を持てるようになる
「見えるな」
目立つこと、人の視線を集めることが危険に直結すると感じた子どもが、この禁止令を決断します。きっかけは、自分自身が注目を浴びて傷ついた経験であることもあれば、目立たないように振る舞う親の生き方を見て、それが安全のルールだと学び取ることもあります。決断の核にあるのは「本当の自分を知られると、恥ずかしい思いをする」という思い込みであったりします。そのため、ありのままの自分ではなく、当たり障りのない「表向きの自分」を作り上げ、その背後に隠れて生きるようになります。
この禁止令を持つ人は、目立たないこと、平均的であることに多くのエネルギーを使います。周囲とのバランスを過剰に意識し、出過ぎず引っ込み過ぎずという狭い範囲に自分を収めようとします。表面的には自信があり、何の問題もないように振る舞いながら、内側では「傷つきやすい自分」を恥じ、それを誰にも見せてはいけないと感じています。「考えるな」「感じるな」「行動するな」といった他の禁止令と結びついて働くことが多く、再決断の際には、見えなくする対象が単なる存在感だけでなく、思考や感情そのものに及んでいないか、注意深く見ていく必要があります。
例:人前で意見を求められても、目立たないよう当たり障りのない答えに留めてしまう。本当はもっと感じていることや考えていることがあっても、それを表に出すと「恥ずかしい思いをする」という不安が先に立ち、表向きの自分を保つことを優先してしまう。
このメッセージの影響は、次のような形で表れることがあります。
- 人から見られること、注目されることに強い恥ずかしさを感じる
- 目立たないように、平均的であるように、振る舞いを調整してしまう
- 本当の自分を表に出さず、「表向きの自分」で過ごす時間が長い
- 周囲とのバランスを過剰に気にし、出過ぎることを避けようとする
- 自分のことを話すのに強い不安を感じる(「信頼するな」の禁止令とも重なりやすい)
- 存在感の薄さ、目立たなさを自分の特徴として受け入れてしまっている
再決断後、どう変わるか
再決断によって書き換わるのは、「見えてしまうと恥ずかしい思いをする」という前提そのものです。見えないことにエネルギーを注ぎ続けるのではなく、見えても良い、傷つきやすい自分を見せても恥ではないという前提に変わっていきます。それに伴い、隠していた部分を少しずつ表に出していくことが、不安の対象ではなく、安心できる相手との関係を深める手段になっていきます。
例えば、こうした変化が見られることがあります:
- 意見を求められたとき、当たり障りのない答えではなく、自分が本当に感じていることを口にできるようになる
- 安全だと感じる相手には、自分の弱さや傷つきやすさを隠さずに見せられるようになる
- 目立つこと自体への過剰な警戒が減り、周囲とのバランスを取ろうとする緊張が緩んでいく
「重要であるな」
この禁止令を持つ人は、子ども時代に「あなたは重要な存在ではない」というメッセージを、親の態度や言葉から繰り返し受け取っている。成功や努力を喜んでもらえず、当然のように見過ごされる。あるいは兄弟姉妹と比較され続け、話を遮られ、意見を聞いてもらえない。自分の意見や欲求を主張しようとすると「お前にそんな難しいことができるはずがない」「お前の欲しいものなど大したことではない」といった形で価値を切り下げられる。こうした環境の中で、本来持っているはずの自己重要感を感じにくくなり、自尊感情の基盤が育ちにくくなる。
この絶望感に抵抗する形で生まれる対処行動が、「人より抜きん出て、誰の目にも明らかな重要人物になる」という生き方である。競争に勝ち、他者を凌駕し、常に「もっと上」を目指すことで、自分の存在価値を外側から証明しようとし続ける。一方で、この禁止令はリーダーシップを求められる場面そのものへの強い恐れとしても現れることがある。注目される立場に立つと過度に緊張し、力を発揮できなくなったり、せっかくの機会を自ら手放してしまったりするのも、同じ「重要であるな」という前提の別の表れである。
例:会議で発言を求められると、的確な意見を持っているにもかかわらず声が出なくなる。あるいは逆に、誰よりも成果を上げなければ自分の存在に意味がないと感じ、休むことも人に頼ることもできずに働き続ける。
このメッセージの影響は、次のような形で表れることがあります。
- 自分が重要な人間であることを、成果や肩書きで示そうとし続ける
- 他者と比較し、優位に立とうとする、または支配的にふるまう
- 褒められても素直に受け取れず、居心地の悪さを感じる
- 本番や注目される場面になると、急に自信を失い力を発揮できなくなる
- 自分の弱さや間違いを人に見せることができない
- 人からの評価や反応に過敏になり、心が休まらない
再決断後、どう変わるか
再決断によって書き換わるのは、「重要であるためには、人より優れていなければならない」という前提そのものです。成果や地位ではなく、ありのままの自分にすでに価値があると実感できるようになる。
重要さを「勝ち取るもの」から「もともと持っているもの」へと、感じ方そのものが移行していきます。その結果、他者との競争を通じて優位に立つことで安心しようとする緊張がゆるみ、評価されること自体への依存も少しずつ減っていきます。
例えば、こうした変化が見られることがあります:
- 成果を上げられなかった日でも、自分の存在価値そのものは揺らがないと感じられ、休むこと・平凡でいることが許せるようになる
- 他者を圧倒したり競争したりする必要がなくなり、相手を認め合う、相互尊重の関係を築けるようになる
- 褒め言葉や好意的な評価を、身構えずに受け取れるようになる
「欲しがるな」
この禁止令は、欲しがること自体が危険だ、あるいは欲しがらないことこそが安全で正しい、と学んだ体験から決断されます。欲しいと言えば誰かに申し訳ない、欲しがれば愛情を失う、というメッセージを受け取った場合や、生きるための最低限のものすら満たされない環境で育った場合に生まれます。たとえば、家庭の経済的な事情で欲求を否定された、欲しがることは醜いという価値観を押しつけられた、親の気分次第で要求への対応が変わった、兄弟との扱いに差があった、といった場面が背景にあることがあります。あるいは、欲しがらずに我慢している養育者の姿を「美徳」として見せられ、欲しがることをあきらめてしまうケースもあります。
その結果、自分が何を欲しいのかさえ分からなくなっていきます。欲しいものがあっても、それをくれそうにない人にだけ言ってみたり、たとえ手に入っても満足しないようにしたりして、無意識に「欲しいものを手に入れない」状態を選び続けてしまうのです。心はまるで何も染み込まないかのように固くなり、何が起きても傷つかないよう、何も欲しがらない人間になろうとします。心の奥では、自分の人生で欲しいものは結局手に入らないのだと、あきらめてしまっています。
例:「もし自分が欲しがると親や小さな兄弟に申し訳ない」と決断するかもしれない。また、生きる最低限のものすら与えられないような体験から決断する場合もある。自分の欲求を後回しにし、欲求を感じることや欲しがることを回避する。
このメッセージの影響は、次のような形で表れることがあります。
- 自分の欲求を我慢することに慣れていて、欲しいという気持ちをあまり表に出さない
- 自分が欲しいものより、人が欲しがっているものを優先してしまう
- 自分は何が欲しいのか、何をしたいのかが分からない
- 欲しいものを手に入れることに、なぜか罪悪感を感じる
- 「はい」「いいえ」をはっきり言わず、「やってみます」「できるかも」のような曖昧な返事になる
- 結局自分の望みは叶わないものだと、最初からあきらめている
再決断後、どう変わるか
「欲しがってはいけない」ではなく、「欲しがることは自分に許されている」という前提に変わります。自分が何を望んでいるかを自分自身で知り、それを自分に与え、そしてくれそうな相手にはきちんと頼んでいい。そのプロセス自体を楽しめるようになっていきます。
例えば、こうした変化が見られることがあります:
- 固く閉じていた心がゆるみ、好きなもの・欲しいものを欲しいと言える自由を感じられるようになる
- 他者の欲求に一方的に応じるだけでなく、自分の気持ちも大切にした相互的な関係を築けるようになる
- 自分のために選択することへの罪悪感が減り、自尊感情や心の余裕が生まれる
能力に関する禁止令
「(決して)成し遂げるな」
例えば、ある人は資格試験に向けて何カ月も準備を重ね、模擬試験では合格圏に入るところまで来ていたのに、本番の数日前になると急に体調を崩したり、勉強そのものから距離を置いてしまったりする。本人にも理由がはっきりしないまま、毎回「もう少し」のところで足が止まり、目標を完成させる手前で歩みが止まってしまう。
この禁止令を決断した人の多くは、「成し遂げてはいけない」というメッセージを直接受け取ったわけではない。「お前は最後までやり遂げられない」と繰り返し評価されることで、「自分は失敗する人間だ」「自分は勝てない人間だ」という自己像をつくり上げてしまう。そしてそれは練習や努力の不足ではなく、「元々ダメな人間だから」だという結論にすり替わっていく。また、成功すると大切な人からの関心を失う、大切な人を出し抜いてしまうと感じている場合もあり、「協調性を大事に」「出る杭は打たれる」といった価値観がこの思い込みを後押しすることもある。背景には、親自身が成し遂げられなかった夢を子どもに重ね、子どもが同じ道で成功しかけると無意識に水を差してしまう、あるいは子どもの成功に親が嫉妬し、その達成を素直に認めてやれないといった事情が潜んでいることもある。
この禁止令への反抗として、「自分の非凡さをあえて証明しよう」と人並み以上の結果を目指して頑張り続ける人もいる。しかしその努力の最中も頭の中は失敗の不安でいっぱいで、結果を出しても心から達成感を味わえない。本当の再決断は、この「証明し続けなければならない」という緊張から離れ、ただ自分のために成し遂げ、その成果を静かに認められるようになることである。
このメッセージの影響は、次のような形で表れることがあります。
- 何かに取り組んでいる途中で、他にやりたいことが出てきて興味をなくしてしまう
- 飽きっぽく、やっていることを途中で投げ出してしまう
- いつも物事を最後までやり遂げられない
- 何事にも中途半端な感じが残ってしまう
- 途中まではうまくいくのに、最後の詰めでうまくいかなくなる
- 勝つこと、成功すること自体に、なぜか不安を感じてしまう
再決断後、どう変わるか
再決断によって、「自分は最後までやり遂げられない」という前提が、「自分は最後までやり遂げてよい」という前提へと書き換わっていく。成功と他者の評価や関係を結びつけて恐れる必要がなくなり、自分のために物事を完成させ、その達成を素直に受け取れるようになる。長く足踏みしていたところから人生が前に進み始め、成功を恐れなくなることで、本当にやりたかったことや、より大きな目標にも目が向くようになる。
例えば、こうした変化が見られることがあります:
- 完成間際で投げ出さずに、最後まで取り組み続けられるようになる
- 達成したことに対して、誰かの評価を待たずに自分自身で満足感を感じられるようになる
- 勝つこと・成功することへの漠然とした不安が減り、新しい目標や本当にやりたいことに取り組めるようになる
「成長するな」「セクシーであるな」
この禁止令は、末子や「家族の中で一番小さい存在」に向けられやすいですが、末っ子に限る訳ではありません。親が子どもの幼さや可愛らしさに自分の存在価値を見出しているとき、子どもが大人になっていくことは、親にとって「自分が必要とされなくなること」を意味してしまいます。その結果、親は無意識に子どもの自立を妨げ、なんでも先回りして世話をしてしまいます。子どもの側は、これを「成長しないほうが、ここでは大事にされる」というメッセージとして受け取り、大人になることへの抵抗として決断します。
この禁止令には「私を置いていくな」という側面が重なることもあります。年老いた親のもとを離れられない、自分の人生の選択を後回しにしてしまう、という形で表れる場合です。また変形として「セクシーであるな」があります。これは多く父親から娘に向けられ、女性として成熟していく娘の姿に父親が戸惑いや嫌悪を示すことで生まれます。娘は「大人の女性になることは、父親の愛情を失うことだ」と解釈し、自分の中の成熟した女性性を抑え込むようになります。
例:「あなたはまだ小さいから」「無理しなくていいから」と、本人ができることまで親が先にやってしまう家庭で育つと、子どもは「成長しないほうが、ここでは喜ばれる」と学び、大人になることそのものを避けるようになります。
このメッセージの影響は、次のような形で表れることがあります。
- 自分よりも年上で、親のような役割を担ってくれる相手を選びやすい
- 年齢にふさわしくない子どもっぽい言動や話し方が抜けない
- 物事の責任を引き受けることに強い抵抗を感じる
- ルールや自己管理が求められる場面で、必要以上の不安や息苦しさを覚える
- 自分で決めることを避け、誰かに決めてもらうことを望んでしまう
- (セクシーであるなの場合)大人としての魅力や女性らしさを表に出すことに、嫌悪感や危険な感覚を覚える
再決断後、どう変わるか
再決断によって書き換わるのは、「私は混乱したまま、誰かに頼らないと生きていけない」という前提です。これが、「私には自分なりの指針があり、必要なときには信頼できる人から学び、影響を受けながら、自分の力で歩んでいける」という前提に変わっていきます。世話をしてくれる人がいなくなることへの恐れではなく、自分自身の成長そのものを喜びとして感じられるようになるのが、この再決断の核心です。
例えば、こうした変化が見られることがあります:
- 誰かに先回りして世話をしてもらうのではなく、自分のペースで物事を進められるようになる
- 年齢相応の責任を、重荷ではなく自分の人生の一部として引き受けられるようになる
- (セクシーであるなの場合)成熟した自分の魅力や女性らしさを、恐れずに自然な形で表現できるようになる
「考えるな」
「お前が考えることは考えるな、私が考えることを考えろ」
子どもが自分の頭で考えようとするたびに、その思考そのものを親から軽んじられ、答えの代わりに混乱や否定を返されると、子どもは「自分で考えるのはやめておこう」という結論にたどり着きます。常に親が先に考え、先に決めてしまう家庭では、子どもにとって考える機会そのものが奪われ、「周りが考えてくれるのだから、私は考えなくていい」という前提が育っていきます。
この禁止令には、特定の対象だけが思考の外に置かれるパターン(お金のこと、性的なこと、人間関係の本質的な部分など、”それについてだけは考えない”という形)と、思考そのものの主導権を手放すパターン(自分の考え方ではなく、他者の考え方をなぞるようにして考える)の、大きく二つの現れ方があります。いずれの場合も、本人の中では「考えること=危険、もしくは無意味なこと」という感覚が先に立ち、考えようとしても頭が真っ白になったり、考えがまとまらなかったりする経験につながります。
この禁止令と闘うかたちで「自分の考えこそが正しい」という確信に強くしがみつく生き方を選ぶ人もいますが、これは禁止令そのものへの反抗であり、解決ではありません。表面的には自分の意見を持っているように見えても、その確信は検証や対話を受け付けない硬さを伴い、視野の狭さや人間関係の摩擦という形で、別の苦しさを生み出してしまいます。
例:仕事の場で意見を求められても「特に考えはないです、皆さんに合わせます」としか言えず、後で一人になってから不満や不安だけが残る、というパターンがあります。一方で、これに抗うように「自分の判断は絶対に正しい」と決めてかかり、人の意見に耳を貸さなくなってしまうケースもありますが、これもまた、自分の頭で柔らかく考える力を取り戻したわけではない、という点で同じ禁止令の中にとどまっています。
このメッセージの影響は、次のような形で表れることがあります。
- 意見や考えを尋ねられても、感情や雰囲気で答えてしまう
- 自分の考えというより、一般論や周りの意見をそのまま述べてしまう
- 自分の頭で考えることに、漠然とした不安やためらいを感じる
- 誰かから指示やお手本がないと、判断したり動いたりできない
- 考えようとすると頭が混乱したり、真っ白になったりする
- お金のこと、性的なこと、将来のことなど、特定の領域だけ考えることを避けてしまう
再決断後、どう変わるか
再決断によって書き換わるのは、「考えることは自分には許されていない、もしくは自分にはできない」という前提です。代わりに、「考える力はもともと自分の中にあり、それを使ってよい」という前提に置き換わっていきます。あいまいさや不確かさに対しても、それを排除しようと固い確信に飛びつくのではなく、わからないままの状態に少しとどまり、状況に応じて考えを調整していけるという柔らかさが育っていきます。
例えば、こうした変化が見られることがあります:
- 「〜ですよね?」と相手の同意を探るのではなく、「私は〜と考えます」と、自分の考えとして言葉にできるようになる
- 意見が違う相手に対しても、自分の考えを撤回したり頑なに押し通したりせず、対話の中で考えを練り直せるようになる
- 「絶対にこれが正解」という結論に急がず、わからない部分があってもよいと思えるようになり、考えること自体への息苦しさが減っていく
「成功を感じるな」
この禁止令を決断した人は、成功しすぎることがそのまま失敗や喪失につながると信じてしまっています。あるいは、「まだ自分は成功していない」と思い続けることこそが、物事をうまく運ぶための安全な方法だと感じています。その背景には、うまくやりすぎたことで周囲から疎まれた経験や、何かを成し遂げても「そんなことは誰でもできる」「それくらいで得意になるな」と、繰り返し価値を切り下げられてきた記憶が関わっていることがあります。
その結果、自分が実際に達成したことを正当に評価せず、できていない部分ばかりに目を向けて自分を追い込み続けるようになります。何事も上手くやろうとし続けながら、成功を喜ぶ代わりに「まだ足りない」という不満を自分自身に向け続けるのです。この姿勢には、すべての問題に責任を感じ、不可能なことにまで力を尽くそうとする傾向が重なっていることもあります。本来は自分の責任ではない苦悩まで、自分が引き受けて解決すべきことのように感じてしまうのです。
例:例えば、仕事で大きな成果を出した直後に、ほめられることに落ち着かなさを感じ、すぐ次の課題に意識を移してしまう人がいます。喜びを感じる間もなく「次はもっとやらなければ」という焦りに駆られてしまうのです。
このメッセージの影響は、次のような形で表れることがあります。
- 何かを達成しても、すぐに次の目標へと意識が移ってしまい、達成感を味わう余裕がない
- やるべきことを終えていても終えていなくても、常に満たされない感覚がある
- 何をやっても意味がないように感じられる
- 成功すると、その後に悪いことが起きるのではないかという不安が生じる
- 成功してしまうと、その先に進むべき道がないように感じる
- 自分や周囲の困りごとを、習慣的に自分の責任として抱え込んでしまう
再決断後、どう変わるか
再決断の中心にあるのは、「成功を喜ぶことは人生の最後まで取っておくべきもの」ではなく、「今、この瞬間に成功を感じてよい」という前提への書き換えです。より高い目標を設定する前に、まず今の自分の達成をそのまま自分で認め、自分を褒めることが許されるようになります。また、成功したからといって努力を止めれば不幸になる、あるいは人が離れていくという思い込みも緩み、安心して成果を受け取れるようになっていきます。
例えば、こうした変化が見られることがあります:
- 何かを成し遂げたとき、次に移る前にその場でしっかりと喜びや満足を味わえるようになる
- 「まだ足りない」という自己批判の声が静まり、達成した事実をそのまま受け止められるようになる
- 世界や周囲の問題を一人で引き受けようとする感覚が薄れ、自分の責任の範囲を適切に区切れるようになる
「するな」
「触ったら壊すに決まっているから、やめなさい」「刃物なんて危ないから、絶対に使わせません」恐怖心の強い親は、試行錯誤や冒険的な行動そのものを禁止します。子どもが何かをやりたいと言い出すたびに先回りして心配し、「行動すること自体が危険だ」というメッセージを送り続けるのです。背景には、親自身の現実的な心配というよりも、親自身の脚本の中に潜む恐怖があることが多く、「目を離したらひどい目に遭うに違いない」という不安が、子どもの自由を奪う形で表れます。
この禁止令を受け取った子どもは、「自分がすること、正しいこと、安全なことは一つもない」と信じ込み、自分で判断する代わりに指示してくれる人を探すようになります。行動するかどうかをいつも天秤にかけ続け、その結果、本当にしたいことではなく「安全であること」を優先するようになります。不安そのものは現実の根拠に基づいたものではなく、強固に防御された思い込みであることが多いのですが、本人にとってはそれが動かない理由として確固たるものになっています。中には、不安から逃れるために儀式的な行動を繰り返す人もいます。
例:新しいことを始めたいと思っても、「失敗したらどうしよう」「もう少し考えたほうがいい」と先延ばしにし続け、結局何年も同じ場所に留まってしまう。あるいは、危険を完全に取り除けるまで動けないと感じ、その「完全な安全」が永遠に訪れないために、人生そのものが停止してしまう。
このメッセージの影響は、次のような形で表れることがあります。
- 過度に用心深く、何をするときも心配が先に立つ
- 失敗することへの恐れが強く、行動の前に立ち止まってしまう
- 安全だと確認できるまで、いつまでも動き出せない
- 本当はしたいことがあっても、実行に踏み出せない
- 世の中は危険だらけだという思い込みが強い
- 行動するかどうかをいつまでも天秤にかけ続けてしまう
再決断後、どう変わるか
再決断は、「行動しないことで自分を守る」のではなく、「行動すること」そのものを選び直すプロセスです。なぜ動けないのかを分析し続けることをやめ、自分で決めて動くことを楽しめるようになります。ここで注意したいのは、不安に突き動かされるようにして無理に危険な行動を達成し、それを”勝利”のように扱うのは、本当の再決断ではなく禁止令への反抗的な対抗にすぎないということです。たとえば「怖くてもとにかくやってみせる」と肩に力を入れて挑戦を重ねるのと、力を抜いて「やってみたい」という気持ちから自然に動き出すのとでは、見た目は似ていても内側の体験はまったく異なります。人生から危険を完全に取り除くことはできないという事実を受け止めたうえで、それでも安全領域の外に出てみることを選べるようになると、人生は窮屈な防御から、豊かな経験へと開かれていきます。
例えば、こうした変化が見られることがあります:
- 完璧な安全の確認を待たずに、小さな一歩を試せるようになる
- 不安や心配を使って立ち止まる代わりに、まず行動してみる方を選べるようになる
- 結果がどうであれ、試したこと自体を自分で認められるようになる
安全(安心感)に関する禁止令
「楽しむな」
「楽しむな」は、自由に楽しんだり喜んだりすることを許されない家庭環境、あるいは親自身が楽しむということをしない姿を見せ続けられることで形成される禁止令です。子どもが喜んでいる姿に対して親が嫉妬したり、楽しむことや幸せであることを「貧しく無知な人間のすることだ」と暗に教えられたりすると、子どもは楽しさや喜びそのものに恐れと罪悪感を結びつけるようになります。その結果、楽しい出来事に心から喜ぶ代わりに、悲しみや不安、あるいは「これでいいのか」という落ち着かなさを感じるよう自分を訓練していきます。
この禁止令の根底には、「人生は本質的に空虚で意味がないものだ」という前提があります。喜びという感覚自体は否定されていなくても、それは「自分の力では手に入れられないもの」「コントロール不能な偶然の産物」として位置づけられてしまうのです。その空虚さに対抗するために、多くの人は無意識に「忙しさ」を選びます。予定を詰め込み、常に何かに追われている状態を作ることで、立ち止まって空虚さに向き合う時間そのものをなくしてしまう、という対抗のしかたです。これは一見すると充実した生き方に見えますが、実際には喜びからますます遠ざかっていく生き方であり、楽しむなという禁止令との闘いを続けているにすぎません。
例えば、休日も予定を埋め尽くして「忙しいから仕方ない」と楽しむ時間を後回しにし続けている人が、ふと手帳が真っ白な日に何も感じられず落ち着かなくなる、というのは典型的な姿です。一方で、本来の解決は予定を減らすこと自体ではなく、「何も予定がない時間こそ、安心して味わっていい」と自分に許可を出せるようになることにあります。
このメッセージの影響は、次のような形で表れることがあります。
- 生きていて楽しいことや幸せなことが何もないという感覚がある
- 人生は楽しくない、自分は幸せになれないという確信を持っている
- 楽しかった出来事を、後から「そんなに楽しくなかった」とすり替えてしまう
- 楽しい話や幸せな話を、真顔や浮かない表情でしてしまう
- 楽しむことや幸せになることに、理由のない罪悪感を感じる
- 楽しいことがあると、その後に悪いことが起きるのではないかと不安になる
再決断後、どう変わるか
再決断によって、「喜びは自分にはコントロールできない、外からやってくるかどうか分からないもの」という前提が、「喜びは自分で守り、自分で選び取っていいもの」という前提に書き換わります。空虚さを忙しさで埋め続ける必要がなくなり、何もない時間そのものを安心して過ごせるようになっていきます。
例えば、こうした変化が見られることがあります:
- 義理や「やらなければ」という気持ちだけで入っていた用事を、断れるようになる
- 友人の冗談に自然に笑えたり、子どもとの時間を心から楽しめたりするようになる
- 休日や何気ない一杯のコーヒーといった小さな喜びの瞬間を、意識して味わえるようになる
「感謝するな」
この禁止令を抱える人は、子ども時代に「与えられたものに満足してはいけない」「人を心から信頼し、感謝してはいけない」というメッセージを繰り返し受け取って育ちます。親が子どもからの感謝を素直に受け取らず「そんなことは気にするな」と突き放したり、何かを与えても「これくらいは当たり前だ、もっと上を目指せ」と常に次の要求を重ねたりする環境です。子どもは、感謝の気持ちを表現しても親には届かない、自分が受け取っているものは本当は十分ではない、というメッセージを内側に取り込んでいきます。
その結果、本人も気づきにくい形で、人に対する不信・警戒・疑念や恨みが土台になります。人間関係の中で「また何か悪いことが起きるのでは」と疑心暗鬼になり、関係そのものが無味乾燥で温かみの乏しいものに感じられます。それでも心の底では温かさを求め続けるため、人に近づいては期待し、失望し、相手を批判するというパターンを繰り返してしまいます。一方で、これに抗うように「全部自分の力で手に入れてやる」と渇望をエネルギーに変える生き方を選ぶ人もいますが、どれだけ手に入れても満たされず、「まだ足りない」という空虚感だけが残ります。豊かさは本来、手に入れたものの量とは関係なく、すでにあるものに目を向け、ありがたいと感じられるかどうかの中にあります。
例:仕事で大きな成果を出して周囲から称賛されても、心のどこかで「まだまだだ」「次はもっと結果を出さないと」と感じてしまい、達成感が長く続かない。パートナーや友人が何かしてくれても、「やってもらって当然」という感覚が先に立ち、ありがたいという気持ちがわいてこない。逆に、人並み以上に感謝の言葉を口にするのに、心からそう感じている実感が薄いということもあります。
このメッセージの影響は、次のような形で表れることがあります。
- 人や物事に対して、ありがたいという気持ちが自然にわいてこない
- 誰かに感謝すると、その人に負けたような感覚になる
- 「やってもらって当然」という前提が強く、やってもらえなかったことへの不満が多い
- 自分の置かれている状況に対して、不平不満が先に出やすい
- 人に対する猜疑心が強く、過去の出来事への恨みを長く持ち続けてしまう
- 人生そのものが無味乾燥で、潤いのないものだという感覚を抱いている
再決断後、どう変わるか
再決断が進むと、「どれだけ手に入れても満たされない」という前提が、「すでに自分の手元にあるもの・受け取ってきたものに気づき、それをありがたいと感じられる」という前提に書き換わっていきます。人に対する不信や警戒のかわりに、まず人への憎しみや怒りを少しずつ手放し、自分自身の存在そのものに対しても感謝できるようになっていきます。また、自分が誰かにしてあげたことだけでなく、これまで他者から受け取ってきたことにも目が向くようになり、関係の中に温かみが戻ってきます。
例えば、こうした変化が見られることがあります:
- 何かをしてもらったとき、「当然」ではなく「ありがたい」という気持ちが自然にわいてくる
- 親や周囲の人に対して、素直に感謝の言葉を伝えられるようになる
- 結果の大小にかかわらず、今すでにあるものを味わいながら、今この瞬間を生きられるようになる
- 何か問題が起きても、これまでして貰ってきたことの感謝の気持ちが湧いてきて、許せるようになる
「感じるな」「お前が感じるようには感じるな、私が感じるように感じろ」
感情そのものを表現することが許されない環境で生まれる禁止令です。家庭によっては、あらゆる感情の表出が禁じられることもあれば、「悲しんではいけない」「怖がってはいけない」「怒ってはいけない」のように特定の感情だけが封じられることもあります。親自身が自分の感情に栓をして抑え込んでいる姿をモデルとして見せられたり、感情を表すとからかわれたり取り乱した様子を見せつけられたりすることで、子どもは知らぬ間に自分の感情への接触を奪われていきます。
この禁止令を強く受けた場合、感情を体験すること自体が「つらく、危険なことだ」という前提が刻み込まれます。その結果、感情を感じないようにするためなら何でもしようとする構えが生まれ、本来の感情は心の奥に押し込められたまま、心と身体の結びつきが切れてしまいます。何を感じているのかが自分でもわからなくなり、思考で感情の代わりを埋め合わせるようになるのです。なお、身体感覚そのものを禁じられるケースもあり、これがごく早期に強く与えられると、後年摂食障害などの問題につながることもあります。
また、「私が悲しいから、あなたも悲しいのよ」のように、相手の感情に自分を合わせることを求められる変形もあります。これを決断した場合、自分の感情の輪郭を相手の感情に委ねてしまい、「自分が何を感じているか」を自分の内側からつかむことができなくなります。
例:子どもが学校で嫌なことがあって泣きながら帰り、親に話そうとすると「泣くな、男らしくない」「感情的になるな」と怒鳴られる。あるいは、親が「感情は弱さだ、理性的であることが強さだ」という価値観を持っていて、子どもが不安や悲しみを口にしようとすると「そんなことを考えるな、論理的に考えろ」と否定される。こうした環境で育つと、子どもは「自分の感情を表すことは許されない」「感情を持つこと自体が劣ったことだ」と学び、感情を心の奥に閉じ込めるようになっていきます。
このメッセージの影響は、次のような形で表れることがあります。
- 笑わない、泣かない、怖がらない、怒らない、興奮しないなど、感情の起伏が乏しい
- 表情の変化が少なく、能面のように見える
- 感情や気持ちを表す言葉が少なく、感情を尋ねられても理屈で答えてしまう
- 自分が今何を感じているのか、自分でもつかみにくい
- 子どものころの記憶が少ない
- 感情を出している人を見て、みっともない、恥ずかしいと感じる
再決断後、どう変わるか
「感情を感じることはつらく危険だ」という前提が、「感情は事実であって、危険なものでも、死ぬほどのものでもない」という前提に書き換わっていきます。感情を感じないために何かをし続ける必要がなくなり、自分の感情を数え上げ、批判や弁明、後ろめたさなしにそのまま感じられるようになります。心と身体の分離が解かれ、「今、自分は何を感じているか」を自分の内側から確かめられるようになるのです。
例えば、こうした変化が見られることがあります:
- 悲しいときに泣く、嬉しいときに笑う、怒るべきときに怒るという自然な表現が戻ってくる
- 感情から逃れるために頼っていた行動(過度な仕事、買い物、依存的な習慣など)への執着が緩む
- 相手の感情に共感しながらも、自分自身の感情とは混同せず、別のものとして区別できるようになる
「くつろぐな(そして安全を感じるな)」
この禁止令は、子どもが心身を休めたり、安心を感じたりすることを許されない環境で形成される。親が休息そのものを否定し、「気を抜くな」「油断するな」というメッセージを発し続けたり、親の機嫌や行動が予測できず、常にその様子をうかがっていなければならない状況に置かれたりすることで、子どもは「くつろぐことは危険であり、油断のない警戒だけが自分を守る」という結論に至る。
こうして子どもは、人生そのものを「目に見えない危険に満ちたもの」として捉えるようになり、絶え間ない警戒状態を維持することで安全を確保しようとする。その結果、身体の緊張を緩める方法がわからなくなり、何もしていない時間や、だらだらすることに罪悪感を抱くようになる。この禁止令は生存に関する禁止令と結びついて働いている場合が多く、再決断には十分な注意が必要である。
例:物心ついた時から頑張っているのが当たり前で、ゆっくりしたり、だらだらすることに罪悪感を感じるという環境下で決断する。のんびりできない、だらだらすることに抵抗があるという場合が多い。
このメッセージの影響は、次のような形で表れることがあります。
- 何もしていなくても、心からゆったりすることができない
- くつろぐ方法そのものがわからない
- 常に何かやることを探し続けている
- いつも急いでいる、いつも忙しくしている
- 身体の力をうまく抜くことができない
- くつろぐと悪いことが起きる、失敗する、というような思い込みがある
再決断後、どう変わるか
再決断によって書き換わるのは、「警戒を続けなければ安全は守れない」という前提そのものである。これまで生き延びるために必要だった警戒は、もはや常時必要なものではなく、自分で力を抜くことを選べるという感覚に変わっていく。同時に、これまで乗り越えてきた経験そのものが、これからも対処していけるという確信の土台として働くようになる。
例えば、こうした変化が見られることがあります:
- 何もしていない時間があっても、罪悪感より先に安心を感じられるようになる
- 身体の緊張に気づいた時、意識して力を抜くことができるようになる
- 過去の困難を乗り越えてきた自分を、警戒の根拠ではなく、自信の根拠として思い出せるようになる
「幸せであるな」
この禁止令は、親自身が不機嫌だったり悲しみを抱えていたりする家庭環境の中で生まれやすいとされています。子どもは、自分が楽しそうにしていると親をさらに苦しめてしまうのではないかと感じ取り、「自分は幸せになってはいけないのだ」という決断を無意識のうちに下してしまうのです。親が自分の人生に絶望していて、子どもの良い出来事を素直に喜べない場合や、親の機嫌を取ることが生きていくための知恵になっていた場合にも、同じような決断が生まれやすいといわれています。
この禁止令の影響下にある人は、幸せというものを「自分の内側に育てるもの」ではなく「外側の状況がうまくいった結果として手に入るもの」だと捉えてしまう傾向があります。そのため、もっと収入が安定したら、もっと環境が整ったら、というように、幸せを常に未来の「いつか」に置き続けてしまい、今この瞬間にすでにある満足や喜びに気づけなくなってしまいます。喜びや悲しみ、怒りといった感情は自然に湧いてくるものでコントロールできませんが、幸せそのものは、今この瞬間に気づき、味わう力として身につけていけるものだと考えられています。
なお、この禁止令の解決は、感謝することそのものへの抵抗(感謝するな)が和らいでいくことと深く結びついているとされており、単独で完結するものではなく、他の安全領域の禁止令の解決と重なり合いながら少しずつ進んでいくものだと理解されています。
例:仕事も家庭環境も大きくは変わっていないのに、ある日ふと、誰かと過ごした何気ない時間の中で「今、幸せだ」と感じた人がいます。けれど、その人はそれまで何年も、同じような瞬間が日常の中にあったことに気づいてきませんでした。何かが大きく変わったわけではなく、すでにそこにあった満足に、ようやく気づけるようになった、ということが起きたのです。
このメッセージの影響は、次のような形で表れることがあります。
- 良いことが起きても、心から喜ぶ前に罪悪感や落ち着かなさがやってくる
- 物事がうまくいきそうになると、自分でも気づかないうちにそれを壊してしまう
- 「これさえできれば幸せになれる」と、幸せの条件をいつも先に置き続けている
- 身近な人が幸せそうにしていると、なぜか距離を置きたくなったり水を差したくなったりする
- 大きな出来事がない限り、自分は幸せだと感じてはいけないと思っている
- 日常の中にある小さな満足や喜びに、ほとんど気づかないまま毎日を過ごしている
再決断後、どう変わるか
幸せは状況がうまくいった「結果」ではなく、今ここにあるものに気づき、味わうという、自分の内側で育てていける力なのだという前提に変わっていきます。何かを成し遂げなければ幸せを感じてはいけない、という縛りから少しずつ解放され、今の人間関係や今の暮らしの中にも、すでに幸せが存在していることを受け入れられるようになります。
例えば、こうした変化が見られることがあります:
- 良い出来事が起きたとき、罪悪感を抱くことなく、素直にそれを喜べるようになる
- 大切な人の幸せを心から応援し、自分の幸せも素直に分かち合えるようになる
- 特別な出来事がなくても、日常のささやかな瞬間の中に幸せを見つけられるようになる